■ジャンパ・プンツォの証言
私は、やがて70才にならんとする年寄りで、北インドのダラムサラで亡命生活を送っています。1928年にチベットで生まれ、1991年に亡命するまで、一僧侶として、戦士として、そして監獄の中の囚人として生きてきました。仏さまが諸行無常を説かれたことは、あなた方もご存じだと思います。私の一生を振り返るにつけても、この世は無常なのだとつくづく思わずにはいられません。高地にしか生息しないヤクの乳から作ったバターに灯された灯りのもとで経典の紐を解き、暗唱に明け暮れた幼い日々。中国共産党軍と戦いながら、剣山に馬を馳せ、岩陰を宿とした日々。監獄の中でひたすら仏とダライ・ラマ法王に祈ることで耐え続けた日々。私は実に26年間もの長い時を監獄で過ごしました。それは本当に途方もない長い時間でした。
今はこうしてダラムサラでナムギャル寺のカラチャクラ堂(時輪タントラ堂)の管理人をしていますが、当時は生きて監獄の外に出られるとは夢にも思いませんでした。このカラチャクラ堂の壁画の中で静かに微笑まれている仏様に灯明や供物を捧げたり、棚や床を拭き上げたりするぐらいしか年をとった私に出来ることはないけれども、仏さまやこの色鮮やかな曼陀羅に囲まれて、ただひたすらチベットのために祈り続けています。死んでいった同胞のために、虐げられている同胞のために、そして今この瞬間にも狭い監獄の中で震え続けている友たちのために。
中国共産党が侵略して来るまでのチベットは、仏教が栄え、信仰深い人々の暮らす平和な国でした。チベット中にたくさんの寺があり、僧侶が修行をし、人々は寄進や布施をすることを徳を積むことであると見なして仏法を宝物のように大切に守って来ました。けれども、中国共産党によって私たちが大切にしていた宝物は粉々に壊されてしまいました。中国共産党は六千にも及ぶ寺院を破壊し、大量の仏像、仏画を略奪し、多くの尊敬してやまなかった高僧たちを殺してしまったのです。何もかもが中国人のせいで変わってしまいました。中国共産党は「チベットを遅れた封建主義から解放し、改革を導入し、人民の地位の向上を図らねばならない」と言いながら、チベットに我が物顔でやって来ましたが、私たち� ��何も「解放」や「改革」などは必要としていなかったのです。仏への信仰ですら「改革すべき旧き悪習」と見なされてしまい、暮らしは中国の侵略で何もかも変わってしまいました。
◆故郷、ルンドゥップの村
私の故郷、ルンドゥップという村は、チベットの首都ラサから北へ100キロ程離れたペンポ地方にあります。ラサからキチュ河に沿って東へ上がり、チベット三大寺の一つであるガンデン寺に向かう一つ手前の道を北に折れて美しい谷間を一日歩いたところにあります。村人のほとんどは、半農半牧の暮らしを営み、冬の五ヵ月を除いた一年の大半を放牧地で過ごしていました。
四方を五千メートル級の山々に囲まれた谷間に村はあり、山から流れ込む清流がいくつもの支流を作り、村の設けられた水車の輪を回し続けていました。西の山上には広い牧草地があり、村人は春と夏の間そこにテントを張って家畜を放牧しました。北側には森林地帯がありたくさんの動物がいました。ジャッカル、レパード、狼、狐、バーラルの群れ、そして森の奥深くには雪男がいるとも言われていました。バーラルは青みがかった灰色をした羊のような動物で太い角を持っています。三十から四十頭の群れでいつも行動し、夏は村の小高い所にある放牧地まで上がって来ました。夕方、放牧地から戻って来た羊の群れに子供のバーラルが交じっていることがよくありましたが、村人たちは決して捕まえたりせず� ��、そのままにして置いて、翌朝放牧地へ放すのが常でした。当時、チベットには家畜を襲うハイエナや狼以外の動物を殺してはいけないという法令があったからです。鳥もたくさんいました。コウノトリ、キジ、小さな青いヒタキ、ヒワ、ツグミ、鷲。それらも狩猟が禁止されていました。人々は自然を大切にして暮らしていました。木の伐採や地下資源の乱用は、ダライ・ラマ五世の時代、十八世紀から厳しく制限されており、人々は忠実にそれを守っていたのです。村には刺草や乾燥させて焚くと芳しい匂のするパマ、パロという草が一面に自生していました。母はそれを集めては、毎朝仏への香として焚いていました。私も幼いころ、母と一緒に集めたものです。
私の家からわずかの所に、大量のお湯が湧き出す温泉があり、村人の湯治場として賑わっていました。湯治場から流れ出たお湯は岩場に流れ込み、村人たちはそこを病に罹った家畜たちの湯治にも使っていました。4ヶ所ほどあった水車は、温泉のお陰で寒い冬も止まらずに済みました。常に暖かいお湯が流れるため、川が凍ることは決してなかったからです。
水車は主に大麦を挽くために使われており、石の挽き臼の軸には、直径50cm、高さ1mの筒がかぶせてありました。赤く塗られ、真言が書かれたその筒中には、軸に幾重にも巻き付けられた経典が入っていました。軸が回ると経典も回る仕掛けになっています。チベットでは、経典を回すと、読経と同じ功徳があると信じられており、同じような仕組の円筒がどの僧院にもあります。人々は僧院に巡礼に行くと、必ず経典の入った円筒を幾度も幾度も回します。そうして、字の読めない者でも読経の功徳を積むことができるのです。マニ車と呼ばれるその円筒は、大きなもので直径二メートル近くあるものもあり、手に持って回す小さいものまであります。人々は巡礼の時にはその小さなマニ車を片時も手を休めずに回し続けるのです。
私は1928年に、長男として生まれました。五つ年が離れた姉がおり、下には四人の弟がいました。父、ケルサンはどちらかというとおとなしく、気が弱いタイプで、三つ年上の母に全く頭が上がりませんでした。父から怒られたり、怒鳴られたりした記憶は全くありません。いつも黙々と仕事をこなしていた後ろ姿が強い印象として残っています。優しい父でした。母の名前はタシ・ラモといい、それはおおらかな人でした。小さな事に全くこだわらず、どんな苦労も笑って吹き飛ばしていました。子供たちのやんちゃも悪戯も大体は大目に見てくれ、限りない愛情を私たちに注いでくれました。
雪が溶け、一斉に生え始めた草花の新芽が淡い緑色で山々を覆い、春の到来を告げると、村人たちは山上の放牧地へと家畜たちを追い立て始めます。ヤク、馬、牛、羊や山羊たちの長い家畜の列とともに、家族ごと移動するのです。大きく獰猛な牧羊犬も欠かせません。犬たちは、家畜が群れから外れないように駆け回り、家畜を狙うジャッカルに目を光らせるのです。私の家にも三匹の犬がいました。
谷間の村から二時間半程登ったところに、牧草地はありました。冬までの8ヶ月の間、雨風を防ぐ家の役目をするのはテントです。ヤクの尾を編んだバという布地は、テントとして最適でした。どんな強い雨も決して漏ることはなく、どんなに冷え込む夜でも暖かさを保ちました。四方に木の杭を立ててテントを吊し、風が入ってこないように周りに土を盛っていました。中に入れば、テントから洩れる陽が注ぎ、村の家に負けないくらい居心地が良いのでした。
テントの中の広さは八畳ほどもあり、中心の竃を囲むようにして寝床がしつらえてありました。もちろん、小さな仏壇も置かれ、お釈迦様の仏画も掛けてありました。片隅には、なみなみとミルクを湛えた大きな桶が二つありました。母は、バター茶作りの天才でした。チベットには、お茶にバターと塩を入れて飲む習慣があります。外国人はあまり好きではないようだけれども、チベット人は皆大好きで日に何度も飲みます。乾燥が激しいチベットでは、バターは重要な油分補給源なのです。バター茶の善し悪しは、バターの質にも関係しますが、作る人の腕にも依ります。まず、ミルクを水で薄め、お茶葉を入れて煮立てます。それから一メートル程の長さの細い筒に移し入れ、バター、塩を加えて、先に円形の� ��を付けた棒で上下に撹拌するのです。母が作るバターがたっぷり入ったまろやかなお茶はとてもおいしく、大好きでした。お茶を入れる母の傍を一時も離れず、今か今かと待ちわびたことを昨日の事のように思い出します。山での食事は、ヤク肉やマトンを塩で味付けしたスープがほとんどで、村から持ち運んだツァンパをときどき食していました。ツァンパは挽いた大麦を煎った粉で、団子状に丸めて食べるのです。後はヨーグルト。チベット人なら、誰でもヨーグルトが大好きです。なぜなら、牝ヤクの乳から作るヨーグルトは、牛のとは比べ物にならないほど濃くおいしいからです。
私の家には、ヤク60頭、山羊と羊が合わせて300匹、馬10頭、牛が20頭いました。私の放牧場での仕事は、ビービーと呼ばれる子供のヤクの世話でした。春は、子供が生まれる時期でもあります。冬の間凍っていた土から一斉に吹き出した柔らかい新芽が覆う山上で、ビービーたちは楽しそうに跳ね回っていました。ビービーに草を食ませたり、遠くに行かないように見張ることを言いつけられていましたが、子供の時分、そんなことはおかまいなしで、よく犬に番をまかせ、ビービーをほったらかしては、柔らかい草が生い茂る山の勾配で草滑りを楽しんだり、ピンクや黄色、紫、色とりどりの野花を摘んだりして遊んだものです。山は子供たちにとって遊びの尽きない宝庫でした。ハーブの匂いが立ちこめる野原を駆け回っては弟たちと取っ組み合 いをしたり、洞穴を見つけては探検をし、きれいな石を集めては小さな家を作ったりして遊びました。見渡す限りどこまでもなだらかな山の稜線が続き、高地の強い日差しの下で、日中は目が眩むほどまばゆく感じました。そして、陽が沈む頃は、夕日が真っ赤に山肌を染め上げ、時間とともに赤から紫へ変わっていくのでした。
父と母、そして私たち兄弟が山へ行っている間、村の家には祖父母、祖母の兄弟二人、母の二人の兄、母の妹である二人の尼僧たちが残って畑を見ていました。私の家は、十六人の大家族だったのです。いつも賑やかで笑い声の絶えない家でした。朝晩は仏像の置いてある祈祷室で、尼僧たちが経典を唱える声が聞こえ、老人たちも各々の部屋でお経を読んでいました。家族は皆、他のチベット人同様敬虔で信心深く、いつも近くにあるシェー尼寺に布施をするのを怠りませんでした。近くの寺の僧侶をよく招いては家で大般若経を読んでもらい、仏への供養もしばしば行いました。
チベット歴4月15日は、仏陀釈迦牟尼の生誕の日であり、また悟りを開いた日でもあり、涅槃に入った日でもあると言われてます。その月はサカダワと呼ばれ、4月15日には、村人たちは、ガンデン寺までチベットで最大勢力を誇るゲルク派の祖師ツォンカパが修行したと言われる小さな洞窟へお参りに行きました。高僧による特別な法話もありました。この日は、寺や高僧たちに一年分のツァンパを布施し、放牧に行っていた者も必ず村へと降りてきて、法話を聞き、ミルクやバターを布施する日でした。
収穫の時期は、村人総出で作業をしました。一斉に畑に出て、たわわに実った黄金色の大麦を鎌で刈り取るのです。脱穀にはヤクや牛、ロバを使います。畑の中心に杭を立ててヤクたちを一列に繋ぎ、刈り取った大麦の上を追い立てるのです。それは楽しい光景でした。家畜たちはそれぞれ歩幅が違うため、一番小さなものを内側に繋ぎ、だんだん大きな家畜を順番に並べて、最後はヤクといった具合でした。六、七頭の動物が並んで、ぐるぐると畑の上を廻り、その後ろを人が歌を歌いながら追い立てる様子は、一日中見ていても見飽きませんでした。牛などは下に敷かれた大麦を盗み食いし、口元をもぐもぐさせながら歩くといった有様でした。脱穀が終わると、今度は大麦を何箇所かに集めて山を作り、棒や鋤� ��大麦を振るい上げると、秋風に軽い穂や籾は飛ばされて行きます。残った大麦をさらにふるいにかけてしまうと収穫の仕事は終わりです。いくつかは、すぐに火で煎られて、今年一番の新しく芳ばしいツァンパとなり、或いは正月のための濁酒、チャンに仕込まれるのでした。収穫が済んでしまうと、村人たちは家からご馳走を持ちよって恒例の秋のピクニックを始めます。二、三日続くそのピクニックのときには、歌を歌ったり、ゲームに興じたり、酒を飲んだりしながら、一日中楽しく過ごすのでした。
チベット歴9月22日、仏陀釈迦牟尼の天界降臨の日は冬の訪れを意味します。その日が来る前までに、村人たちは家を石灰で白く塗り直し、家畜が冬を越すための餌を貯蔵しなければなりません。初雪が降りる頃、放牧地ではテントをたたみ、人々は家畜と共に村へ戻り始めます。冬には、大地は凍り付いて雪の下になり、かわいそうな家畜たちの腹に入る食料の量は少なくなってしまいます。家には乾燥させた牧草が蓄えてありましたが、腹一杯になるには程遠く、家畜は冬の間は痩せて、腹をすかしていなければなりませんでした。私たちは、冬の間は乳搾りをしませんでした。冬の間は外での仕事はほとんどありません。母たちは羊の毛を紡いだり、織物や絨毯を織ったりして過ごしていました。
私の家は、村の他の家同様、石造りの二階建てでした。一階は、やや低くなっており、台所と食料などの大きな貯蔵庫がありました。二階には、六つの部屋があり、仏像や仏壇がある祈祷室以外は家族の寝室として使われていました。高さ三メートルもある塀が家の周りを囲み、中庭に繋がれている家畜たちを泥棒やジャッカルたちから守っていました。畑には、大麦と菜の花、大根、豆、葉菜等が植えられていました。菜の花からは、油を取り、豆も挽いてツァンパのように食べていました。村では、お金に触る機会は滅多にありませんでした。服は羊毛を紡いで作るか、ヤクや羊皮を用いていたし、村に無いお茶や塩などは、ツァンパやバターなどと交換して手に入れていました。電気や自動車といった近代的な� ��のは何一つなかったけれども、誰もが質素な生活に満足しており、幸せだったと言えます。今日の社会のように、朝から晩まで身を粉にして働くという生活からは程遠い暮らしを営んでおり、全てはゆったりとしたペースで動いていました。人々は楽しげに歌を歌いながら収穫や馬追いをし、手が空けば、村の寺の回りを幾度となく巡礼し、祈りました。寺に惜しみなく寄進し、僧侶に尊敬を払い、信仰をとても大事にしていたのです。
◆出家、ラサへ
8才になった年、両親と一緒にラサへ向かいました。両親は、正月にラサ総本山で開かれる大祈祷法会に合わせて参拝した後、私をセラ寺にて出家させるつもりでいました。デプン寺の僧侶である母の弟が、私の後ろ楯をしてくれることになっていました。年が明けたばかりの冷え込んだ冬の早朝、私たちは12頭のヤクを引き連れて、ラサへと出発しました。ヤクの背には、デプン寺やセラ寺に寄進するためのバターやツァンパがどっさり入った袋が積まれており、私もその上に乗せられました。すぐ下の6才になったばかりの弟イシェ・サムテンも母に背負われて一緒でした。弟はラサの学校に通うことになっていました。ヤクの背中に揺られながら、私の胸はまだ見ぬラサの街への期待で一杯でした。ラサから来る行商人や、年� �数回家を訪れる叔父がラサの街の賑やかな様子をよく聞かせてくれたものです。ダライ・ラマ法王の冬の宮殿である大きなポタラ宮殿。チベットの偉大なる王ソンツェン・ガンポのネパールの妃がもたらしたチベット最古の仏像、釈迦牟尼仏が安置されているジョカン寺。何千もの僧侶を抱えたセラ寺、デプン寺。けれども子供にとっては、荘厳な僧院の話しよりも、沢山の商店や露店が並ぶ門前町の話しの方に興味を引かれました。甘いお菓子やパン、干あんずがどっさり積み重ねられている様、インドから運ばれて来たおもちゃの数々、外国製の珍しい品々。人々の往来で賑あう市場を想像するだけで、ラサへの到着が待ち焦がれて仕方無くなるのでした。
私たちは、ルンドゥップの村を出て谷あいの道を歩きキチュ河にぶつかると、そのまま河沿いをラサへと下っていきました。雪が薄く積もった山間を河に沿って二日程歩き、ガチェンという最後の峠を越えると、遥か彼方に白く聳え建つポタラ宮殿が見えました。真っ青に澄み渡る空に遠目にもくっきりと浮かび上がったポタラ宮殿が目に飛び込んだ瞬間、私たちは歓声を上げ、大地に平伏して、ポタラ宮に向かって五体投地をしました。ラサに近づくに従って、ポタラ宮殿も一際大きく、高く、私たちに迫って来るように見え、足取りは自然と早まるのでした。
ガチェンの道からラサに入り、叔父の家に到着すると私たちは荷物を早々と降ろして早速ラサ見物へと出かけました。街の中心は、ジョカン寺といわれる大きな寺です。ジョカン寺は、ラサの総本山といえる格式ある寺で、七世期のチベットの偉大なる王ソンチェン・ガンポの王妃がネパールからもたらした釈迦牟尼仏が安置されています。チベットの仏教信仰の中心とも言えるこの寺に、私たちは、まず、この釈迦牟尼仏を参拝しに行きました。溢れんばかりの巡礼者でジョカン寺は一杯で、私はこんなに沢山の人垣は初めてだったので、ほとんど目が回りそうでした。チベットのありとあらゆる地方から来た巡礼者たちは、それぞれ珍しい変わった格好をしていました。腰紐に大きなナイフを差し込み、赤い糸で� ��を束ねている東から来た東のカムの男たち。髪に沢山のトルコ石を編込んでいるカムの女たち。細い三つ編みをたくさん垂らし、トルコ石や珊瑚、瑪瑙をつけた東北のアムドの女たち。私も巡礼の列に加わり、父母の真似をして手を合わせ、頭を仏像の台座にコツンと付けて祈りました。
ジョカン寺のすぐ脇をぐるりと巡る右繞道も、たくさんの巡礼者で溢れかえっていました。チベット中から来た巡礼の人の波は、幾度も幾度もジョカン寺の周りの右繞道を回るため、途切れることがありませんでした。そして、右繞道で店を構える露店の多さ、人の多さ、店頭に並ぶ商品の多さに圧倒され、幼い私はただ目を見張るばかりでした。ロカ地方の羊織物、中国産の絹の反物、仏具、装飾品、薬草等が積み上げられ、商人たちは大きな声で道行く人々を呼び止め、商品をさばいていました。子供が欲しがるようなものもどっさりあり、目移りして仕方ありませんでした。父が私と弟のために氷砂糖をたっぷり買ってくれたことを今でも昨日のことのようによく覚えています。
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