■ジャンパ・プンツォの証言
私は、やがて70才にならんとする年寄りで、北インドのダラムサラで亡命生活を送っています。1928年にチベットで生まれ、1991年に亡命するまで、一僧侶として、戦士として、そして監獄の中の囚人として生きてきました。仏さまが諸行無常を説かれたことは、あなた方もご存じだと思います。私の一生を振り返るにつけても、この世は無常なのだとつくづく思わずにはいられません。高地にしか生息しないヤクの乳から作ったバターに灯された灯りのもとで経典の紐を解き、暗唱に明け暮れた幼い日々。中国共産党軍と戦いながら、剣山に馬を馳せ、岩陰を宿とした日々。監獄の中でひたすら仏とダライ・ラマ法王に祈ることで耐え続けた日々。私は実に26年間もの長い時を監獄で過ごしました。それは本当に途方もない長い時間でした。
今はこうしてダラムサラでナムギャル寺のカラチャクラ堂(時輪タントラ堂)の管理人をしていますが、当時は生きて監獄の外に出られるとは夢にも思いませんでした。このカラチャクラ堂の壁画の中で静かに微笑まれている仏様に灯明や供物を捧げたり、棚や床を拭き上げたりするぐらいしか年をとった私に出来ることはないけれども、仏さまやこの色鮮やかな曼陀羅に囲まれて、ただひたすらチベットのために祈り続けています。死んでいった同胞のために、虐げられている同胞のために、そして今この瞬間にも狭い監獄の中で震え続けている友たちのために。
中国共産党が侵略して来るまでのチベットは、仏教が栄え、信仰深い人々の暮らす平和な国でした。チベット中にたくさんの寺があり、僧侶が修行をし、人々は寄進や布施をすることを徳を積むことであると見なして仏法を宝物のように大切に守って来ました。けれども、中国共産党によって私たちが大切にしていた宝物は粉々に壊されてしまいました。中国共産党は六千にも及ぶ寺院を破壊し、大量の仏像、仏画を略奪し、多くの尊敬してやまなかった高僧たちを殺してしまったのです。何もかもが中国人のせいで変わってしまいました。中国共産党は「チベットを遅れた封建主義から解放し、改革を導入し、人民の地位の向上を図らねばならない」と言いながら、チベットに我が物顔でやって来ましたが、私たち� ��何も「解放」や「改革」などは必要としていなかったのです。仏への信仰ですら「改革すべき旧き悪習」と見なされてしまい、暮らしは中国の侵略で何もかも変わってしまいました。
◆故郷、ルンドゥップの村
私の故郷、ルンドゥップという村は、チベットの首都ラサから北へ100キロ程離れたペンポ地方にあります。ラサからキチュ河に沿って東へ上がり、チベット三大寺の一つであるガンデン寺に向かう一つ手前の道を北に折れて美しい谷間を一日歩いたところにあります。村人のほとんどは、半農半牧の暮らしを営み、冬の五ヵ月を除いた一年の大半を放牧地で過ごしていました。
四方を五千メートル級の山々に囲まれた谷間に村はあり、山から流れ込む清流がいくつもの支流を作り、村の設けられた水車の輪を回し続けていました。西の山上には広い牧草地があり、村人は春と夏の間そこにテントを張って家畜を放牧しました。北側には森林地帯がありたくさんの動物がいました。ジャッカル、レパード、狼、狐、バーラルの群れ、そして森の奥深くには雪男がいるとも言われていました。バーラルは青みがかった灰色をした羊のような動物で太い角を持っています。三十から四十頭の群れでいつも行動し、夏は村の小高い所にある放牧地まで上がって来ました。夕方、放牧地から戻って来た羊の群れに子供のバーラルが交じっていることがよくありましたが、村人たちは決して捕まえたりせず� ��、そのままにして置いて、翌朝放牧地へ放すのが常でした。当時、チベットには家畜を襲うハイエナや狼以外の動物を殺してはいけないという法令があったからです。鳥もたくさんいました。コウノトリ、キジ、小さな青いヒタキ、ヒワ、ツグミ、鷲。それらも狩猟が禁止されていました。人々は自然を大切にして暮らしていました。木の伐採や地下資源の乱用は、ダライ・ラマ五世の時代、十八世紀から厳しく制限されており、人々は忠実にそれを守っていたのです。村には刺草や乾燥させて焚くと芳しい匂のするパマ、パロという草が一面に自生していました。母はそれを集めては、毎朝仏への香として焚いていました。私も幼いころ、母と一緒に集めたものです。
私の家からわずかの所に、大量のお湯が湧き出す温泉があり、村人の湯治場として賑わっていました。湯治場から流れ出たお湯は岩場に流れ込み、村人たちはそこを病に罹った家畜たちの湯治にも使っていました。4ヶ所ほどあった水車は、温泉のお陰で寒い冬も止まらずに済みました。常に暖かいお湯が流れるため、川が凍ることは決してなかったからです。
水車は主に大麦を挽くために使われており、石の挽き臼の軸には、直径50cm、高さ1mの筒がかぶせてありました。赤く塗られ、真言が書かれたその筒中には、軸に幾重にも巻き付けられた経典が入っていました。軸が回ると経典も回る仕掛けになっています。チベットでは、経典を回すと、読経と同じ功徳があると信じられており、同じような仕組の円筒がどの僧院にもあります。人々は僧院に巡礼に行くと、必ず経典の入った円筒を幾度も幾度も回します。そうして、字の読めない者でも読経の功徳を積むことができるのです。マニ車と呼ばれるその円筒は、大きなもので直径二メートル近くあるものもあり、手に持って回す小さいものまであります。人々は巡礼の時にはその小さなマニ車を片時も手を休めずに回し続けるのです。
私は1928年に、長男として生まれました。五つ年が離れた姉がおり、下には四人の弟がいました。父、ケルサンはどちらかというとおとなしく、気が弱いタイプで、三つ年上の母に全く頭が上がりませんでした。父から怒られたり、怒鳴られたりした記憶は全くありません。いつも黙々と仕事をこなしていた後ろ姿が強い印象として残っています。優しい父でした。母の名前はタシ・ラモといい、それはおおらかな人でした。小さな事に全くこだわらず、どんな苦労も笑って吹き飛ばしていました。子供たちのやんちゃも悪戯も大体は大目に見てくれ、限りない愛情を私たちに注いでくれました。
雪が溶け、一斉に生え始めた草花の新芽が淡い緑色で山々を覆い、春の到来を告げると、村人たちは山上の放牧地へと家畜たちを追い立て始めます。ヤク、馬、牛、羊や山羊たちの長い家畜の列とともに、家族ごと移動するのです。大きく獰猛な牧羊犬も欠かせません。犬たちは、家畜が群れから外れないように駆け回り、家畜を狙うジャッカルに目を光らせるのです。私の家にも三匹の犬がいました。
谷間の村から二時間半程登ったところに、牧草地はありました。冬までの8ヶ月の間、雨風を防ぐ家の役目をするのはテントです。ヤクの尾を編んだバという布地は、テントとして最適でした。どんな強い雨も決して漏ることはなく、どんなに冷え込む夜でも暖かさを保ちました。四方に木の杭を立ててテントを吊し、風が入ってこないように周りに土を盛っていました。中に入れば、テントから洩れる陽が注ぎ、村の家に負けないくらい居心地が良いのでした。
テントの中の広さは八畳ほどもあり、中心の竃を囲むようにして寝床がしつらえてありました。もちろん、小さな仏壇も置かれ、お釈迦様の仏画も掛けてありました。片隅には、なみなみとミルクを湛えた大きな桶が二つありました。母は、バター茶作りの天才でした。チベットには、お茶にバターと塩を入れて飲む習慣があります。外国人はあまり好きではないようだけれども、チベット人は皆大好きで日に何度も飲みます。乾燥が激しいチベットでは、バターは重要な油分補給源なのです。バター茶の善し悪しは、バターの質にも関係しますが、作る人の腕にも依ります。まず、ミルクを水で薄め、お茶葉を入れて煮立てます。それから一メートル程の長さの細い筒に移し入れ、バター、塩を加えて、先に円形の� ��を付けた棒で上下に撹拌するのです。母が作るバターがたっぷり入ったまろやかなお茶はとてもおいしく、大好きでした。お茶を入れる母の傍を一時も離れず、今か今かと待ちわびたことを昨日の事のように思い出します。山での食事は、ヤク肉やマトンを塩で味付けしたスープがほとんどで、村から持ち運んだツァンパをときどき食していました。ツァンパは挽いた大麦を煎った粉で、団子状に丸めて食べるのです。後はヨーグルト。チベット人なら、誰でもヨーグルトが大好きです。なぜなら、牝ヤクの乳から作るヨーグルトは、牛のとは比べ物にならないほど濃くおいしいからです。
私の家には、ヤク60頭、山羊と羊が合わせて300匹、馬10頭、牛が20頭いました。私の放牧場での仕事は、ビービーと呼ばれる子供のヤクの世話でした。春は、子供が生まれる時期でもあります。冬の間凍っていた土から一斉に吹き出した柔らかい新芽が覆う山上で、ビービーたちは楽しそうに跳ね回っていました。ビービーに草を食ませたり、遠くに行かないように見張ることを言いつけられていましたが、子供の時分、そんなことはおかまいなしで、よく犬に番をまかせ、ビービーをほったらかしては、柔らかい草が生い茂る山の勾配で草滑りを楽しんだり、ピンクや黄色、紫、色とりどりの野花を摘んだりして遊んだものです。山は子供たちにとって遊びの尽きない宝庫でした。ハーブの匂いが立ちこめる野原を駆け回っては弟たちと取っ組み合 いをしたり、洞穴を見つけては探検をし、きれいな石を集めては小さな家を作ったりして遊びました。見渡す限りどこまでもなだらかな山の稜線が続き、高地の強い日差しの下で、日中は目が眩むほどまばゆく感じました。そして、陽が沈む頃は、夕日が真っ赤に山肌を染め上げ、時間とともに赤から紫へ変わっていくのでした。
父と母、そして私たち兄弟が山へ行っている間、村の家には祖父母、祖母の兄弟二人、母の二人の兄、母の妹である二人の尼僧たちが残って畑を見ていました。私の家は、十六人の大家族だったのです。いつも賑やかで笑い声の絶えない家でした。朝晩は仏像の置いてある祈祷室で、尼僧たちが経典を唱える声が聞こえ、老人たちも各々の部屋でお経を読んでいました。家族は皆、他のチベット人同様敬虔で信心深く、いつも近くにあるシェー尼寺に布施をするのを怠りませんでした。近くの寺の僧侶をよく招いては家で大般若経を読んでもらい、仏への供養もしばしば行いました。
チベット歴4月15日は、仏陀釈迦牟尼の生誕の日であり、また悟りを開いた日でもあり、涅槃に入った日でもあると言われてます。その月はサカダワと呼ばれ、4月15日には、村人たちは、ガンデン寺までチベットで最大勢力を誇るゲルク派の祖師ツォンカパが修行したと言われる小さな洞窟へお参りに行きました。高僧による特別な法話もありました。この日は、寺や高僧たちに一年分のツァンパを布施し、放牧に行っていた者も必ず村へと降りてきて、法話を聞き、ミルクやバターを布施する日でした。
収穫の時期は、村人総出で作業をしました。一斉に畑に出て、たわわに実った黄金色の大麦を鎌で刈り取るのです。脱穀にはヤクや牛、ロバを使います。畑の中心に杭を立ててヤクたちを一列に繋ぎ、刈り取った大麦の上を追い立てるのです。それは楽しい光景でした。家畜たちはそれぞれ歩幅が違うため、一番小さなものを内側に繋ぎ、だんだん大きな家畜を順番に並べて、最後はヤクといった具合でした。六、七頭の動物が並んで、ぐるぐると畑の上を廻り、その後ろを人が歌を歌いながら追い立てる様子は、一日中見ていても見飽きませんでした。牛などは下に敷かれた大麦を盗み食いし、口元をもぐもぐさせながら歩くといった有様でした。脱穀が終わると、今度は大麦を何箇所かに集めて山を作り、棒や鋤� ��大麦を振るい上げると、秋風に軽い穂や籾は飛ばされて行きます。残った大麦をさらにふるいにかけてしまうと収穫の仕事は終わりです。いくつかは、すぐに火で煎られて、今年一番の新しく芳ばしいツァンパとなり、或いは正月のための濁酒、チャンに仕込まれるのでした。収穫が済んでしまうと、村人たちは家からご馳走を持ちよって恒例の秋のピクニックを始めます。二、三日続くそのピクニックのときには、歌を歌ったり、ゲームに興じたり、酒を飲んだりしながら、一日中楽しく過ごすのでした。
チベット歴9月22日、仏陀釈迦牟尼の天界降臨の日は冬の訪れを意味します。その日が来る前までに、村人たちは家を石灰で白く塗り直し、家畜が冬を越すための餌を貯蔵しなければなりません。初雪が降りる頃、放牧地ではテントをたたみ、人々は家畜と共に村へ戻り始めます。冬には、大地は凍り付いて雪の下になり、かわいそうな家畜たちの腹に入る食料の量は少なくなってしまいます。家には乾燥させた牧草が蓄えてありましたが、腹一杯になるには程遠く、家畜は冬の間は痩せて、腹をすかしていなければなりませんでした。私たちは、冬の間は乳搾りをしませんでした。冬の間は外での仕事はほとんどありません。母たちは羊の毛を紡いだり、織物や絨毯を織ったりして過ごしていました。
私の家は、村の他の家同様、石造りの二階建てでした。一階は、やや低くなっており、台所と食料などの大きな貯蔵庫がありました。二階には、六つの部屋があり、仏像や仏壇がある祈祷室以外は家族の寝室として使われていました。高さ三メートルもある塀が家の周りを囲み、中庭に繋がれている家畜たちを泥棒やジャッカルたちから守っていました。畑には、大麦と菜の花、大根、豆、葉菜等が植えられていました。菜の花からは、油を取り、豆も挽いてツァンパのように食べていました。村では、お金に触る機会は滅多にありませんでした。服は羊毛を紡いで作るか、ヤクや羊皮を用いていたし、村に無いお茶や塩などは、ツァンパやバターなどと交換して手に入れていました。電気や自動車といった近代的な� ��のは何一つなかったけれども、誰もが質素な生活に満足しており、幸せだったと言えます。今日の社会のように、朝から晩まで身を粉にして働くという生活からは程遠い暮らしを営んでおり、全てはゆったりとしたペースで動いていました。人々は楽しげに歌を歌いながら収穫や馬追いをし、手が空けば、村の寺の回りを幾度となく巡礼し、祈りました。寺に惜しみなく寄進し、僧侶に尊敬を払い、信仰をとても大事にしていたのです。
◆出家、ラサへ
8才になった年、両親と一緒にラサへ向かいました。両親は、正月にラサ総本山で開かれる大祈祷法会に合わせて参拝した後、私をセラ寺にて出家させるつもりでいました。デプン寺の僧侶である母の弟が、私の後ろ楯をしてくれることになっていました。年が明けたばかりの冷え込んだ冬の早朝、私たちは12頭のヤクを引き連れて、ラサへと出発しました。ヤクの背には、デプン寺やセラ寺に寄進するためのバターやツァンパがどっさり入った袋が積まれており、私もその上に乗せられました。すぐ下の6才になったばかりの弟イシェ・サムテンも母に背負われて一緒でした。弟はラサの学校に通うことになっていました。ヤクの背中に揺られながら、私の胸はまだ見ぬラサの街への期待で一杯でした。ラサから来る行商人や、年� �数回家を訪れる叔父がラサの街の賑やかな様子をよく聞かせてくれたものです。ダライ・ラマ法王の冬の宮殿である大きなポタラ宮殿。チベットの偉大なる王ソンツェン・ガンポのネパールの妃がもたらしたチベット最古の仏像、釈迦牟尼仏が安置されているジョカン寺。何千もの僧侶を抱えたセラ寺、デプン寺。けれども子供にとっては、荘厳な僧院の話しよりも、沢山の商店や露店が並ぶ門前町の話しの方に興味を引かれました。甘いお菓子やパン、干あんずがどっさり積み重ねられている様、インドから運ばれて来たおもちゃの数々、外国製の珍しい品々。人々の往来で賑あう市場を想像するだけで、ラサへの到着が待ち焦がれて仕方無くなるのでした。
私たちは、ルンドゥップの村を出て谷あいの道を歩きキチュ河にぶつかると、そのまま河沿いをラサへと下っていきました。雪が薄く積もった山間を河に沿って二日程歩き、ガチェンという最後の峠を越えると、遥か彼方に白く聳え建つポタラ宮殿が見えました。真っ青に澄み渡る空に遠目にもくっきりと浮かび上がったポタラ宮殿が目に飛び込んだ瞬間、私たちは歓声を上げ、大地に平伏して、ポタラ宮に向かって五体投地をしました。ラサに近づくに従って、ポタラ宮殿も一際大きく、高く、私たちに迫って来るように見え、足取りは自然と早まるのでした。
ガチェンの道からラサに入り、叔父の家に到着すると私たちは荷物を早々と降ろして早速ラサ見物へと出かけました。街の中心は、ジョカン寺といわれる大きな寺です。ジョカン寺は、ラサの総本山といえる格式ある寺で、七世期のチベットの偉大なる王ソンチェン・ガンポの王妃がネパールからもたらした釈迦牟尼仏が安置されています。チベットの仏教信仰の中心とも言えるこの寺に、私たちは、まず、この釈迦牟尼仏を参拝しに行きました。溢れんばかりの巡礼者でジョカン寺は一杯で、私はこんなに沢山の人垣は初めてだったので、ほとんど目が回りそうでした。チベットのありとあらゆる地方から来た巡礼者たちは、それぞれ珍しい変わった格好をしていました。腰紐に大きなナイフを差し込み、赤い糸で� ��を束ねている東から来た東のカムの男たち。髪に沢山のトルコ石を編込んでいるカムの女たち。細い三つ編みをたくさん垂らし、トルコ石や珊瑚、瑪瑙をつけた東北のアムドの女たち。私も巡礼の列に加わり、父母の真似をして手を合わせ、頭を仏像の台座にコツンと付けて祈りました。
ジョカン寺のすぐ脇をぐるりと巡る右繞道も、たくさんの巡礼者で溢れかえっていました。チベット中から来た巡礼の人の波は、幾度も幾度もジョカン寺の周りの右繞道を回るため、途切れることがありませんでした。そして、右繞道で店を構える露店の多さ、人の多さ、店頭に並ぶ商品の多さに圧倒され、幼い私はただ目を見張るばかりでした。ロカ地方の羊織物、中国産の絹の反物、仏具、装飾品、薬草等が積み上げられ、商人たちは大きな声で道行く人々を呼び止め、商品をさばいていました。子供が欲しがるようなものもどっさりあり、目移りして仕方ありませんでした。父が私と弟のために氷砂糖をたっぷり買ってくれたことを今でも昨日のことのようによく覚えています。
ペットが放棄される理由
ジョカン寺からポタラ宮殿までは、歩いて二十分ほどです。マルポ丘に建てられたポタラ宮は、全体が一つの山のようで、傍までくるとその大きさと高みに圧倒されてしまいそうでした。十三階の高さを誇る、あのような大きな建築物を見たのは生まれて初めてでした。父の兄がポタラ宮殿の中にあるナムギャル寺にて出家していたので、私たちの案内をしてくれました。息を弾ませてポタラ宮殿への長い階段を登り切ると、そこからはラサの街が一望できました。麓の小さな家が建ち込む、諸官庁があるショル村。左手にはジョカン寺がある中心街の美しく塗られた白い壁の家々が見渡せました。ポタラ宮殿からのラサの景色は、今でも目にくっきりと焼き付いています。19年もの間、僧侶としてポタラ宮殿で暮らしていましたから。
私たちが泊まっていた叔父の家は、ジョカン寺の東側に位置するバナクショーと呼ばれる区域にありました。叔父は、デプン寺の僧侶であったけれども、僧院には住まず、ラサで交易を営んでいました。毎年、夏になると北へ出かけては、遊牧民から羊毛を仕入れ、代わりに黒砂糖や茶をさばいていました。叔父は交易で得たお金のほとんどをデプン寺に寄付していました。叔父は真面目な人で信頼があり、皆にとても好かれていたため、交易は非常にうまくいっていました。
大祈祷法会が終わった後、弟は叔父の家に預られ、私はセラ寺にて髪を落とし、出家の身となりました。けれども、セラ寺での出家生活は、子供にとって決して楽しいものではありませんでした。経典を学ぶにはまだ幼すぎた私は、年配の僧侶たちが仏への供養のためにツァンパをこねて作るトルマという円錐状のお供物を作るのを見様見真似で手伝っていました。一週間も経てば、もうトルマ作りにも飽きてしまって、私は家が恋しくて仕方なくなってしまいました。子供のヤクを追って草原を駆け回ったこと、毎朝母が香りの良い草や香木を焚いていたことが思い出され、目の裏にヤクたちや母がちらつくのでした。ルンドゥップの田舎の光景が浮かんできて、懐かしくてたまらなくなり、「家に帰る」と駄々を� ��ねては回りの僧侶たちを困らせました。
ある日、使いでバナクショーに住む叔父の家に行くことになりました。叔父の顔を見た途端、私はわっと泣きだして叔父にしがみつき、そのまましゃくり上げてしまいました。「もう、セラ寺には戻らない」と言って泣きじゃくる私を叔父は優しくなだめてくれ、「セラ僧院には戻らなくてもいいから泣くのは止めなさい」と静かに言いました。夕方、セラ寺から迎えが来ましたが、叔父が事情を説明してくれ、そのまま叔父の家に居られるように取り計らってくれました。セラ寺の僧侶が帰った後、叔父は私にこう聞いてきました。
「お前は、経典を勉強したいという思いが少しはあるのかい。お寺の生活が嫌なら僧衣を脱いで還俗してしまっても私は構わないよ。けれども、もし少しでも仏典を学びたいという意志がお前にあるのならば、僧衣は脱がない方がいい。今還俗してしまうと、必ず後で後悔することになるから」
私はうつむいてしばらく黙っていましたが、決心して顔を上げました。
「お経を勉強します。僧侶になるのが嫌なわけじゃないんだ」
叔父はそれを聞くとにっこりと微笑みました。
「では、早速、明日からお経の学習を始めようか。セラ寺には戻りたくないだろうから、この家に先生をセラ寺から呼ぶことにするか。ここはお寺じゃないからといっても甘くはしないからね。よく勉強するように」
叔父は本当に優しい人でした。私が経典を学ぶ機会を失わずに済んだのも、全て叔父のお陰だと思っています。そんなことになっていたら、叔父に言う通り、悔やんでも悔やみ切れなかったでしょうから。
こうして、叔父の家で経典を学ぶ日々が始まりました。週に幾度かセラ寺から先生がわざわざ出向いてくれ、私に字の読み方から教えてくれました。そのうち短いお経を暗唱するようになりました。ヤクも母も叔父の家には居なかったけれども、私はもう淋しくありませんでした。ラサで学校に通い始めたばかりの弟が一緒だったからです。叔父は、以前ナムギャル寺の僧侶が街での宿舎に使っていた建物を購入して、自宅にしていました。立派な二階建てで、壁は見事な黄色に塗られていました。叔父と料理人、私と弟の四人には広過ぎる家でした。叔父はとても優しくしてくれました。決して怒ったりはしませんでしたが、その代わり、私が経を読まず遊んでいると、一言も口をきかなくなるのです。子供心なが� ��、黙りこくっている叔父には本当に困り果てました。いっそ、叱ってくれた方がどんなに楽だったことか。それでも、一日中勉強しているわけではなく、夕方の決まった時間になると、近所の老人が私をジョカン寺にお参りに連れていってくれました。叔父は私に小銭を持たせるといつも決まってこう言うのでした。
「お菓子を買わずに、仏さまにちゃんと差し上げてくるのだよ。後で、仏さまにお尋ねするからね」
幼かった私は本気で信じたものです。ジョカン寺の釈迦牟尼仏の前に行くと、仰々しく小銭を布施しては、
「仏さま、おじさんが来たら、忘れずにお金を差し上げた事をお伝えください」
と言うのを忘れませんでした。
◆ナムギャル寺、ポタラ宮での生活
12歳になった年、ナムギャル寺の僧侶になりたいと思い、ナムギャル寺で僧侶生活を送ることになりました。特別の理由があったわけではありません。ラサ近郊の野原で初夏のピクニックを楽しむ僧侶たちの様子をたまたま見かけたときにふとそう思ってしまったのです。ゲームをしながら笑い、友達同士ふざけあっているナムギャル寺の僧侶たちは、なんだかとても楽しそうでした。私は立ち止まって僧侶たちの様子をしばらく眺めた後、家に急いで帰ると、叔父にナムギャル寺の僧侶になりたいと打ち明けました。叔父は「そうか、そうか、それは良かった」と喜び、このチャンスを逃してはいけないと思ったのか、すぐにナムギャル寺に掛け合ってくれました。ダライ・ラマ法王直轄のナムギャル寺には、18才以上ではない� �入れない事になっていましたが、そこを叔父は「ナムギャル寺の仮面舞踏の法要会には、子供の役が必要だったはずだが、その役にうちの甥を使ってやってくれ」と、こじつけて僧院長に許可を取ってくれました。そして、チベット歴6月16日、ナムギャル寺に入ることになりました。ナムギャル寺の黄色の色が入った真新しい僧衣を一式作ってもらい、それに袖を通すとなんだか偉くなった気がしました。嬉しさで胸を一杯にして、叔父に連れられてポタラ宮殿の長い階段を登って行きました。
ナムギャル寺はポタラ宮殿の中にあります。ポタラ宮殿はダライ・ラマ法王の冬の宮殿としての役割をするだけではなく、様々な別の顔も持っていました。政府官庁、集会場、勤行堂、食物の貯蔵庫、武器倉庫、金銀財宝の倉庫、各僧院から優秀な僧侶を集め、政治経済を学ばせる官僚の養成学校、そして、百七十人の僧侶を抱えるナムギャル寺。ポタラ宮には迷子になってしまうほどの沢山の部屋があり、千室はあると言われていました。ナムギャル寺は、西側の白く塗られた建物の上層部にありました。そこには、僧房、台所、授業や読経のために集まる御堂などがあります。ダライ・ラマ法王の住居は、東側の白宮にありました。歴代のダライ・ラマ法王の霊塔も安置してあり、ソンツェン・ガンポの仏像を始� ��として、数多の数の仏像も奉ってありました。優しくしてくれた叔父や弟と離れて暮らさなければならないことはつらかったけれども、やがて一人で暮らすことも平気になりました。代わりに私を見てくれることになった父の兄であるナムギャル寺の僧侶も、叔父と同じ様にとても優しかったからです。伯父、そして私の勉強を見てくれるトプテン・テンダルという四十才くらいの僧侶と私の三人で住むことになる部屋は今までのに比べると小さいものでした。けれども、南に面した陽が一日中よく当たる居心地の良い部屋でした。
◆ダライ・ラマ法王の帰還
ようやく、新しい生活にも慣れ始めた頃、ラサが沸き立つようなニュースが入って来ました。ダライ・ラマ法王の転生者がラサにお戻りになられるというのです。先代法王がお隠れになってからの4年間、人々は法王の転生と発見をひたすら祈り続けていました。誰にとっても心にぽっかりと穴が空いたようで、心もとない淋しい4年間でした。それが、ようやく玉座に戻られるというのです。人々の喜びはひとしおでした。ラサの人々は街や道を掃き清め、北のアムドの寒村に転生した幼い法王のお帰りを、今か今かと首を長くして待ちました。チベット歴の9月5日、ダライ・ラマ法王はラサから5キロほど離れたドゥグタンという村までいらっしゃり、そこで吉日を待ってラサに入ることになりました。政府の高官たちやラサ市民たちは、ドゥグタンまで朝早くからお迎えに上がりました。私も、伯父に連れられてまだ暗いうちにラサを発ってドゥグタンに向かいました。
道を挟んで大臣やナムギャル寺と三大寺院の僧侶たちが立ち並び、政府の役人や市民がそれに続きました。各々手に香や白い絹を持ち、期待と嬉しさで胸を高ならせる人の列はどこまでも長く、はるか遠くまで続いていました。法王の乗った輿が視界に見え始め、だんだん近づいてはっきり見えるようになると、人々の口から歓喜の声や経文が漏れ始めました。僧侶たちは高々に法螺やギャリを吹き鳴らし、シンバルが一斉に鳴らされ、まるで空気が震えるように感じられるほど草原中に響き渡りました。法王の籠の前には、黄色い絹の装束を着た踊り手たちが踊りながら先頭をきって進んできました。踊り手たちは、地面に着くかと思われるほどの金色の刺繍の入った長い袖をまっすぐ左右に伸ばすと、体を傾けて� ��び跳ねながらぐるぐると回り踊り、続いてダムネェンという弦楽器に合わせて歌い手たちの歌う長い節が聞こえてきました。法王の乗った輿が目の前を通り、小さな法王の姿を目にした途端、一瞬雷にでも打たれたかのように誰もが立ちすくみました。年寄りたちは、おいおい泣き出し、手を強く合わせ、腰を低く屈めて体を縮こませ、必死に拝んでいました。中には失神する者もいました。人々のあまりに興奮した様子に、私はびっくりしてしまいました。父の兄に促されるまで、われを忘れて呆然といつまでも立ちすくんでいたのでした。
ダライ・ラマ法王は、丘に張られた大きなテントの中に入り、人々と逢われ、祝福を与えることになりました。政府の高官と僧侶が謁見を許されていました。私もナムギャル寺の僧侶の列に並んで、静かに順番が来るのを待っていました。法王はラサから運び込まれた玉座の上にお座りになっていました。近づくに従って、その小さな手を人々の頭に置いて、一人一人に祝福を与えているのが見え、自分の順番が待ち遠しく、胸の高なりは押さえられないほどでした。やっと順番が回って来て、法王の柔らかな小さい手が私の頭にそっと置かれた時の感触を今でも覚えています。この方がチベットの王、観音菩薩の化身のダライ・ラマ法王であらせられるのか。近くで初めて謁見できた感激は、12才だった私の胸にもいつまでもいつまでも残っていました。法王は、わずか4才でいらっしゃいました。
ナムギャル寺の一日は、朝早くから始まります。四時半に起床、五時には御堂に全僧侶が集まって読経をしなければなりません。読経は、お茶とツァンパの朝食を挟んで八時半まで続きます。十五分の休憩の後、再び十一時半まで読経。昼食の後は、一時半から三時、四時から五時半の二回の読経がありました。それが終わるとようやく部屋に戻れるのですが、ゆっくりする間もなく、今度は同室の僧侶トプテン・テンダル師から経典や声明を習うのでした。僧院では、午後からの食事は戒律で禁じられていたのですが、父の兄は時々パンなどを食べるのを大目に見てくれていました。それでも、遊び盛りの子供にとって僧院生活はつらく、私は何度も黙ってナムギャル寺を飛び出しました。薄暗くなるまで、パルコ� ��の店を覗いたり、ジョカン寺の中を巡礼の者の後についていったりしてぶらぶらしては時間を潰し、夕方になるとバナクショーの叔父の家に何食わぬ顔をして訪れました。
「今日からナムギャル寺はお休みなんだ」と言ってみたところで、信じてくれるわけはなく、次の日には叔父に連れられて寺に戻るはめになるのが常でした。
1年間、ダライ・ラマ法王はノルブリンカ離宮に滞在された後、ポタラ宮へ住居を移されました。移動の日、ノルブリンカからポタラ宮殿までの道はびっしりと人で埋りました。そしていつ果てるともない兵士、政府の高官、貴族たちの長い行列が続きました。皆それぞれ豪華な服を着て、頭には黄色い房がまわりに垂れた丸い帽子をかぶっていました。高官たちは様々な色の絹地に龍や鳳凰といった豪華な刺繍の入ったチュバ(チベットの民族服)を着ており、まばゆいばかりでした。毎年行われた、ノルブリンカ離宮とポタラ宮殿間を行き来するダライ・ラマ法王の輿の行列は、ラサの名物でした。
5才にして、法王が他の子供と異なる気品を持つことは誰の目にも明らかでした。お顔立ちからは、知性の聡明さが伺われました。その幼いダライ・ラマ法王と一緒に遊ぶ役目に選ばれたのは、ナムギャル寺で一番幼かった私でした。動物のまねや動物の骨を丸くみがいた玉を指で弾く遊び。法王の3才年上の兄、ロプサン・サムテンも一緒でした。体を激しく動かすような遊び以外は、普通のチベットの子供と同じ様な遊びをして時を過ごしました。けれども、法王の遊びの時間は、厳しく制限されていて、一日の大半は、勉強か修行にあてられていました。他愛無い子供の遊びの中でも、法王の優しさを私は何度も実感しました。一度もかんしゃくを起こしたり、怒ったりしたことはありませんでした。私は、よく馬の役をして� ��王を背に乗せ、馬の啼き真似をして部屋中を駆け回ったものです。高くいなないては、後ろ足で立ち上がる馬をまねると、法王は振り落とされないようにと必死で首にしがみつき、後ろ足で跳ねれば、遊牧民の騎手さながらに法王は重心を取るのでした。そうして、ふざけ合って本当によく笑いました。そして、必ず法王はこう言うのでした。
「次は、ぼくが馬になる番だよ。背中に乗って」
私の背丈の半分もまだ無いというのに、真顔でおっしゃるのでした。
◆ラサの四季
季節が変わるごとに、祭や法要でラサは溢れんばかりの人で一杯になりました。人々はほがらかで歌うのが大好きで、祭りや祝い事がある時には、歌い踊る人の輪がいくつも出来るのでした。チベット歴の正月は、一年を通して最もにぎわうときです。ナムギャル寺では、元旦の早朝に法要を行います。ダライ・ラマ法王もいらっしゃり、一緒に法要をした後、正月のご馳走が振る舞われます。ヤクの干肉、甘いご飯、豚肉の煮込み、肉饅頭、バター等が配られ、お腹がふくれると、後は自由に外出してもいいことになっていました。私は、バナクショーの叔父の家に行き、元旦を過ごしました。叔父の家では、正月用の小麦粉を揚げた甘いお菓子(カプセ)をたくさん貰えるのが、毎年楽しみでした。
2日には、ダライ・ラマ法王の謁見のために、ラサ中の人々がポタラ宮にやって来ました。政府高官や貴族、地方の高官たちが謁見を済ませると、次はナムギャル寺の僧侶たちの番でした。それから、セラ、デプン、ガンデン寺、政府の兵士たちが続き、最後にラサ市民たちが謁見をします。僧侶以外は皆、色とりどりの晴れ着を着てポタラ宮に集まるため、大変華やかな雰囲気でした。
5日からは、1年の内で最も盛大な大祈祷法会が始まります。15世紀にツォンカパによって始められたこの法会は、21日間に渡って繰り広げられ、仏法が栄え、国家が安定し、ダライ・ラマ法王が長寿を得られるように祈願するものです。五日の早朝、ギャリと呼ばれるオーボエを先導に、ナムギャル寺の僧侶は一列になって、まだ薄暗い朝靄の中を大祈祷法会が行われるジョカン寺まで歩いて行きます。デプン、セラ、ガンデンのラサ三大寺の僧侶たち、近郊の寺の僧侶たちも集まり、総勢2万5千余の僧侶たちによってジョカン寺は埋め尽くされるのです。小豆色の僧衣を着た溢れんばかりの僧侶たちが集う様子は、息を飲むほど荘厳な感じがしました。法会は朝から夕方まで行われ、終わると僧院ごとの問答大会が開かれ ました。ゲシェ(善知識)という学位が与えられる問答の試験も行われ、ゲシェの中の最高学位であるラーランパの試験は、ダライ・ラマ法王の御前で行われました。
15日には、染色をしたバターで作ったトルマが、ジョカン寺の正門の広場にいくつも置かれました。トルマは円錐状をした仏へのお供物で、様々な装飾が施されていました。花、ヤクや鳳凰などの鳥獣類、吉祥を象徴する紋様。各寺ごとに器用な僧侶たちが腕を振るい、それは見事な、色鮮やかなトルマが立ち並びました。大きいものは20メートル近くもあるものもあり、日が暮れると夥しい数の灯明で照らし出されました。チベットでは太陰暦を用いているので、15日は満月にあたります。空に満月がぽっかりと浮かび上がると、ダライ・ラマ法王がトルマの鑑賞にジョカン寺より現れました。月夜の下、揺らぐ灯明に映し出された色鮮やかなトルマは、きらびやかな宝石のようでもありました。厳かな読経の声とギャリの音が響 き渡る中を、法王はいつまでも飽きずにトルマを眺めておられました。
シクリッドの品種をどのようですか?
最終日である26日は、彌勒菩薩の勧進が行われます。ジョカン寺から運び出された彌勒菩薩の仏像がパルコル(右繞道)を一周し、再びジョカン寺に戻されると同時に大祈祷法会は終わりを告げます。そして、人々が楽しみにしている一年で最も賑やかなお祭りが始まるのです。歌舞、力比べ、相撲、競馬、マラソン大会、娯楽の少ないチベットではどれも沢山の人垣が出来て、笑い声や野次が盛んに飛び交い、大変な賑いでした。優勝者には賞品が与えられました。競馬は、政府の馬と市民の馬がデプン寺を出発し、パルコルまで到着する順位を競うもので、これぞという俊馬を持つ者は、馬に自分の名前を書いて出場させました。飼い主たちは、縁起を担ぐために親指で馬の額にバターを塗り、優勝するようにと願を掛けることを忘れませ� ��でした。チベットには、幸運を呼ぶためにバターを塗る習慣が在ります。子供が旅立つ時、額に塗ったり、正月に最初に使う湯飲みの縁に塗ったりするのです。馬に乗る騎手はいないため、民衆や飼い主が馬を追い立てながら、パルコルへと駆け抜けさせました。砂煙がもうもうと舞い上がり、観衆の中に馬が飛び込んで来たりすれば、大騒ぎとなりました。
27日、正月の行事が全て終わると、ラサに巡礼に来ていた人々は、それぞれの村へ帰る仕度を始めます。この日は、大祈祷法会に合わせて来ていた母も村へ帰る日でした。村からラサまで3日しか掛からないこともあって、母は大祈祷法会に合わせて毎年ラサに巡礼に来ることになっていました。私は、指折り数えて母が来る日を待ち焦がれ、今か今かと首を長くして待っていました。母の顔を久しぶりに見ることのできる時の嬉しさは言いようがありません。1年間の出来事を堰を切ったように母に話し続け、夜遅くなるまで興奮してなかなか寝付けませんでした。本来ならば、大祈祷法会の期間中はラサ市街にあるナムギャル寺の僧坊にいなければいけなかったのですが、特別に母と一緒にバナクショーの叔父の家に泊まること� �許されていました。私は母と一緒の床に入り、一年分の空白を埋めるかのように普通の子供に戻って思いっきり甘えていました。当時、ラサには舗装された道はなく、砂利道ばかりでした。石ころを避けて歩く母の足元を見つめながら、その足取り通りに歩幅を合わせて歩いたことを今でもよく思い出します。全ての催し物が終わると、母は私をポタラ宮まで送ってくれました。ポタラ宮は規律が厳しく、一般参賀者が許されている午前中以外は、女性は立ち入り禁止になっていました。母はポタラ宮の手前まで来ると私をポタラ宮の方へと促しました。
「先生の言うことをよく聞いて、しっかり勉強しなさいね」
私は唇をぎゅっと噛んで、下を向いたまま何度もうなずくばかりで、もう母の顔を見ることが出来ませんでした。去っていく母の後ろ姿を見送りながら、涙がこぼれて仕方ありませんでした。母が夕暮れのラサの街に消えてしまってから、ようやくポタラ宮へと向きを変え、長い階段をとぼとぼと登っていきました。2、3日は勉強どころではなく、経典を開く気にもなれず、母のことを思い出してばかりいました。
ナムギャル寺では毎月のように密教の神々の法要がありました。美しい砂曼陀羅が作られ、法要は伝統的な儀軌に乗っ取り、厳格に行われました。3月には、密教の中でも最も深遠と言われるカラチャクラの法要が行われました。法要は、早朝から夜9時まで、延べ10日間続けられました。ダライ・ラマ法王もいらっしゃり、厳格に全てが執り行われる中、御堂はいつもとは違った雰囲気を醸し出しました。初めて法要に参加したとき、言いようの無い感動に包まれたのを覚えています。天井からは、仏の一生を描いた見事な大仏画が下げられ、東側の壁には白多羅菩薩の仏画、西にはシャンバラ、正面には壁を覆うようにして大きな時輪タントラの仏画が掛けられ、四方のぐるりは、金色の刺繍が施された五色の天幕で囲まれていました。その荘厳さ、立派さに圧倒され、経を読み進むうちに仏教徒としての、僧侶としての強い自覚が生じて来るのでした。密呪を唱える声、御� �中に反響する鈴の音、地鳴りのような法螺の響き。極楽とはこのような所なのかもしれないと思わせるほど、全てが神聖に感じられました。法要が終わって幾日か経っても、なお幸福感は冷めやらず、私はその時本気で仏教を勉強しようと決めたのでした。私の師はよくこう言いました。
「国に仏法が栄えますようにと祈願をしなければ、ろくでなしになるぞ。お経を暗記すればするだけ、やがて心の平安を得て暮らせる。けれども、カラチャクラを学ばなければ、結局何も勉強しなかったに等しい」
5月は、野外ピクニックを楽しむ月と言ってよい程、チベット中で人々はご馳走を持ちより、気持ちの良い場所にテントを張って、日がな一日お喋りや宴会に明け暮れます。初夏の日差しの下で、のんびりと過ごすことはチベット人の大のお気に入りの一つでした。ナムギャル寺でも12日間のピクニックに行くことになっています。おいしいチーズ、バターのたっぷり入ったお茶、モモと呼ばれるヤク肉入りの餃子、干肉などのご馳走がふんだんに準備され、キチュ河のほとりに大きなテントを張って、ピクニックを楽しみました。この間は無礼講で、僧侶たちは普段は出来ないスポーツやゲームに興じても、長老の老僧たちから叱られずに済みました。15日は、世界の平和を祈る日(ザンブリンティサン)の日です。ラサの人々は� ��タラ宮の前の野原にテントを張って、道祖神や村の守り神たちに灯明を上げ供養しました。そして、そのまま続けて3、4日ピクニックを楽しむのでした。
6月4日は、釈迦が始めて説法をした日です。ラサ市民たちは、その日修行者のいる洞穴へ行き、ツァンパや茶、バター、マッチなどの必需品や食料を布施します。セラ寺の裏山には、沢山の修行者が人里離れて瞑想していましたが、その日だけは外部者を受け入れることになっていたため、人々は裏山を訪れて布施をしたのでした。
7月には、野外オペラが開かれます。ラモと呼ばれる仮面舞踏がチベットでは大変盛んで、テレビや映画といった娯楽は他になかったため、ラモが行われるときには老若男女が集まりました。演目は、破仏をした事で悪名高いランダルマ王を倒す物語といった歴史ものや、密教行者パドマ・サンバヴァの八変化といった宗教ものが多く演じられました。ノルブリンカで5日間に渡って催される野外オペラに、ラサ市民たちは、お茶を入れたポットと敷物を持参して、朝早くから集まりました。ナムギャル寺の僧侶たちも観劇が許されていたので、私も毎年楽しみにしていました。最終日には、ダライ・ラマ法王もいらっしゃいました。中日には多少だれていた役者たちも、最終日にはここぞとばかりに張り切りました。毎回、昼時に� ��食事が振る舞われ、夕方には大きな耳の形をした小麦粉の揚げ菓子(カプセ)が配られました。役者によってはどっと笑いが巻き起こったり、あるいは退屈して眠りこけてしまったり、知り合いとお喋りに花を咲かせたりと、どちらかと言えば緩慢な劇の間を、人々は自由気ままに過ごしていました。この期間は、役所も閉まり、政府の役人たちも皆こぞってノルブリンカにやって来ました。もちろん、市民たちも仕事を休み、店も閉め、ノルブリンカに集まっていました。チベット人は誰でもラモが大好きだったからです。
10月24日はゲルク派の祖師ツォンカパの命日です。ラサ中の寺々、家という家の戸口や窓には灯明があげられました。ポタラ宮の僧坊の窓からは、何万、何十万というバターランプの灯りで、ラサの街全体がぽおっと明るく照らし出されたように、闇の中から浮き上がって見えました。遠い空の彼方から見れば、きっとチベット中の村々数え切れないほどの灯明で明るく照らしだされていたに違いありません。
毎朝の5時には、霧がたち込めるラサの街に、ラサ中の僧院からの法螺の音が厳かに響き渡ります。僧侶たちは、勤行のために御堂に向かい、人々はマニ車を片手に右繞道を巡礼に出かけます。ジョカン寺を巡る右繞道、ポタラ宮を巡る右繞道、そしてラサ全体を巡る長い右繞道。それは、もう、二度と手にすることは出来ないであろう幸せで穏やかな日々でした。
私の下には、4人の弟がいましたが、皆12才になった年にそれぞれラサのデプン寺にて出家しました。家には一番上の姉が残っただけで、他は皆出家をしたのですが、チベットでは女性が家を継ぐことは珍しい事ではないのです。私は年を重ねるに従って仏教に興味を抱き始め、修行に真摯な熱意を傾けました。もう、寺での生活が嫌で逃げ出そうと思うこともなくなり、時間があれば、自室でいつも経典をひろげていました。
◆中国共産党の侵略
けれども、そんな穏やかで幸せな日々は長く続きませんでした。1949年、中国共産党が北京の権力を奪回し、中華人民共和国を樹立すると同時にチベットの雲行きも危うくなってきたのです。まさに、いつ果てるとも知れぬチベットの受難の幕開けでした。翌年の1月1日には、中国共産党は「人民共産党軍の義務は台湾、海南島、チベットの解放である」との声明を発表しました。『チベットの解放』が一体何を意味するのか、当時人々は何も解っていませんでした。私は21才になったばかりでした。父の兄が1949年に肺炎を患って亡くなり、私はトプテン・テンダル師と二人で生活をするようになっていました。夜は、師より経典の解説を受けることになっていましたが、終わるとどうしても話題は新中国政府に終始してしまうのでした。私も師もチベットの未来がどうなってしまうのか、具体的 には何も予測していませんでした。ただ、どうしても不吉な予感を拭い去ることが出来ずにいたのです。重苦しい気持ちを抱えたまま、幾月かが過ぎました。街中で、不吉な兆候が現れ始めました。デプン僧院に今までに見たこともない大蛇が現れたとか、井戸の水が突然枯れたとか、そんな類の話で街は一杯でした。
1950年10月7日、中国人民共産党軍は、東から国境線を越えて、チベットへの侵略を開始しました。人民共産党軍は、東チベット(カム)に進駐していたチベット軍をいとも簡単に破り、10月19日にはカムの首府チャムドを征服したのです。そのぞっとする知らせはすぐにラサに届きました。街中が恐怖に陥り、人々は不安に駆られて、誰もが寺に集まりました。ラサ中でチベットの守護神パルデン・ラモの加持を祈願する経が読まれました。各僧院では大きな祈祷法会が連日のように行われ、ラサの空には香を焚く煙が立ち込めました。ナムギャル寺でも祈祷に一日の大半を費やしていました。私も朝から晩まで皆と一緒に祈祷をしました。政府は、ラサ中から兵士を募り、すぐに東チベットに派遣しましたが、効果は何も期待でき� ��せんでした。私たちは長い間戦争というものを知らなかったのです。しかも中国はチベットの百倍以上の人口を持つのです。私たちにはろくな兵器もなければ、訓練された軍隊もなく、ただ仏や神に祈ることしか術を持ちませんでした。チベットを侵略しようとしている中国共産党が一体何者なのか、支配下に置かれてしまったならば一体どうなってしまうのか、人々の不安は深まる一方でした。
「共産党は、宗教を敵対視している。仏教を絶えさせてしまうつもりだ」
「共産党は、伝統的な習慣を禁じてしまう。古き良きものを全て破壊してしまうはずだ」
「寺も僧侶も何もかも無くなってしまうだろう」
街中に様々な噂が広がり、人々の不安は高まるばかりでした。人々は、それらが単なる噂でないことに気付くのに多くの時を必要とはしませんでした。実際、はるかに想像を越えた圧政としてチベットに重くのしかかって来たのです。
ラサの街中に、高官たちや摂政を非難し、ダライ・ラマ法王に政権を引き渡すことを要求した貼紙が現れました。人々は、この危機を乗り越えるためにはダライ・ラマ法王を政権の座につける以外にはないと思っていました。法王ならばチベットを救って下さると信じていたのです。摂政から法王に政権が引き継がれるのは、本来ならば2年先の予定でしたが、人々の頼みは法王だけでした。人々は不安におののき、ヒステリックなまでに興奮し、怒りを政府が無策だったことに向け、非難を始めました。政権交代を要求する声は日増しに強くなるばかりでした。やがて、政府は予定を早め、法王の就任式が開き、法王は政治と宗教の指導者として玉座に着かれたのでした。法王は、その時15歳でいらっしゃいました。そして、新しい首相にロプサン・タシという僧侶とルカンワという俗人が、法王によって任命されました。行方の知れぬチベットの運命は、まだ若い法王の肩に重くのしかかったに違いありません。私は、チベットの未来がどのようになろうとも法王に従って行こうと思っていました。一寸先も分からぬ暗闇を手探りするような状況の中で、法王をた だ一つの頼みの綱とし、祈り続ける日々が続きました。大きな戦争へと突入するのだろうか、敗北して何もかも失ってしまうのではないだろうかと色々と思い患い、一睡もできぬまま朝を向かえたことも少なくありませんでした。
1951年5月23日、法王の命により北京に派遣されたチベット代表団が『チベット解放十七箇条協定』に調印したというニュースが入って来ました。その協定は「チベット人民はチベットから帝国主義侵略勢力を駆逐し、中華人民共和国という祖国の大家族に復帰する」と唱えていました。チベット人が納得の上でそんなものに判を押すわけはありません。調印を無理強いされたに違いないと皆考えました。この協定はチベット人から祖国と自由を奪うもの以外の何物でもありませんでした。私は、その晩夜の更けるのも構わず、長い時間、部屋でトプテン・テンダル師とこの調印が持つ意味について話し合いました。二人とも眠れないのは一緒のようでした。
「チベットはどうなってしまうのだろう。チベットが中国に復帰するなんて言語道断も甚だしい」
トプテン・テンダル師は、そう言って中国人への憎悪をぶつけました。チベット人は昔から中国人を嫌っていました。ラサには何人かの中国人商人がいましたが、好感を持つものは誰もいませんでした。『帝国主義侵略勢力を駆逐』するというのもおかしな話でした。ラサには、当時、インドの捕虜収容所から逃げ出してきた二人のオーストリア人と英国領事館で働く数人のイギリス人しかいなかったのですから。『宗教には手を触れない』という項目もありましたが、どのように考えてみても楽天的な見方は出来ず、中国の支配下に置かれたチベットが平穏な道を辿るとは思えませんでした。
その年の10月26日、ついに中国共産党の大軍がラサに進駐してきました。赤い旗と毛沢東の肖像を掲げ、甲高くラッパを吹き鳴らしながら、共産党軍はラサへと入ってきました。初めて見た額縁の中の毛沢東の顔に、私は今までに味わったことのない忌まわしさを感じるのを押さえることは出来ませんでした。先頭に掲げられた赤い旗には黄色の星が五つ付いてました。そして、その後にいつ果てるとも知れない長い長い兵士の列が続きました。どの兵士も埃だらけで憔悴しきっているように見え、同じ様な表情の無い顔をしていました。高々に吹き鳴らすラッパとけたたましいドラムの音は、心の不安に益々拍車を駆け、私は今までの味わったことのない底知れない恐怖感に襲われました。背筋がゾクゾクと震えてきたのです。人々は手� �盛んに叩きました。歓迎したのでは決してありません。チベットには、人を賛えて拍手をするという習慣はありませんでした。手を叩くというのは、魔を蹴散らして追い払うという行為だったのです。人々はこの侵略者たちへの憎しみと嫌悪感を隠そうとはせず、目をしかめて、手を叩き続けました。
わずか数ヵ月の間に、中国共産党軍の数は2万にも達しました。当然のことのように共産党軍の食料が要求され、チベット政府は物資を調達せねばなりませんでした。すぐにラサの食料事情は悪化し、異常なインフレがおこったのです。穀物の値段は急上昇し、食料等の物資の不足状態は慢性化したため、人々は中国兵たちへの憎しみをますます積のらせました。チベットには、鶏肉を食べる習慣はなかったため、ラサにはたくさんの鶏がいました。けれども、共産党軍が来てからは、あれほどいた鶏はいつしか一匹もいなくなってしまいました。人々は、この忌まわしい侵略者への反感を隠そうとせず、中国兵を見かけると手を叩いては嘲りの言葉を投げかけました。けれども、増え続ける中国兵の前には私たちは無力で何もなす術を持ちませんでした。やがて、共産党� �はラサの西にある主要都市シガツェ、ギャンツェにまで進駐し始めたのです。
間もなく、東チベットと北のアムド地方からラサに通じる二本の幹線道路建設の計画が持ち上がりました。計画を知ると、ラサの人々は猛烈に反対しました。道路が完成すれば、大量の中国人が流れて来るのは容易に想像出来ました。これ以上の中国人は、一人たりとてチベットの聖なる土地に来て欲しくはありませんでした。車の通る道など必要ない、これがチベット人の考えでした。共産党軍が来てからというもの、全てが急速なスピードで変わり始めました。将校や兵士の宿泊施設として多くの家が奪われ、軍隊を進駐するための広大な土地が占領され、道路整備が始まり、風紀は乱れました。沢山のトラックや軍用車が騒音を立てて走り回り、もうもうと埃が立ち上っていました。それまで、私たちは自動車� ��おろか車輪の付いたものも見たことがありませんでした。皆、移動の時は馬に乗り、ヤクの背に荷物を乗せていたからです。全てがゆっくりとした牧歌的なペースで動いていたのに、人々は道路工事や宿舎の建設に駆り出されて、休む間も無く働かされました。共産党軍は、チベット政府に絶え間ない干渉を行い、何一つ自由に決めることは出来なくなってしまいました。人々は抵抗運動組織を密かに結成し、共産党軍を非難する声明のビラが街中に現れ始めました。
1953年の冬、ダライ・ラマ法王は毛沢東より北京を訪問するように招待を受けました。人々はそのことを聞くと、猛烈に反対しました。誰もが法王が中国人たちに殺されてしまうか、さもなくばそのまま北京に幽閉されてしまい、帰って来られなくなると危惧したからです。この時期に法王がチベットを離れることは、誰にとっても大変心細いことでした。北京への訪問が決定されると、ナムギャル寺では法王の無事の帰還を願う法要が連日行われました。
1954年7月11日、法王は北京へと向かうために、ラサを離れました。ラサの人々は、涙とともに見送りました。法王の姿が見えなくなるにつれ、私は言いようのない深い悲しみに包まれて行きました。法王は、チベット人にとってかけがいのない宝でした。法王のためならば、喜んで命すら投げ出すでしょう。限りない尊敬と信仰をよせるに価する、善なるもの全ての象徴でした。法王不在の一年間、人々は絶え間ない不安と共産党軍の横行に心底打ちのめされていました。たった一年間のことだったのに、誰もが法王の帰還を待ち焦がれていました。
「いつ戻られるのか、何か聞いた者はいないか」
人々が集えば、必ずこう口に出ました。その後、法王がインドに亡命し、チベットから本当にいなくなってしまったあの日から、人々は法王が再びラサに戻られるのをどんなに切望していることか。チベットの人々は、一日千秋の思いで法王が戻られる日を待っているのです。
◆共産党の横暴
ダライ・ラマ法王の北京滞在中の毛沢東との会談も何ら実を結ぶことなく、事態は悪化の一途を辿りました。法王と毛沢東の個別対談の中で毛は
「我々はチベットを助けに来たのだ。チベットが我々を必要としなくなったときにはすぐに手を引こう」
と述べたということが伝えられました。わずかな期待を感じたものの、言葉通り信じるにはあまりにも中国のやり方は不誠実で、横暴でした。そして、1956年の春、とうとう東チベットで大規模な決起が起きたのです。様々な憶測が飛びかっていましたが、次第に事態が明らかになってきました。東チベットからの行商人、あるいは戦火を逃れてきた難民たちがその様子を伝えたのです。東チベットでの中国人の横行はひどく、人々の我慢も限界に来ていました。決起は時間の問題だったのです。東チベットから伝えられた話は、身の毛のよだつほど恐ろしいものでした。
民主改革として人民公社という組織が導入され、伝統的社会が壊された挙句、人々の暮らしががんじがらめに統制されてしまっていました。深い仏教知識を持つ学僧や高僧、地方の豪族たちは批判集会(タムジン)に引きずり出され、集められた村人たちの前で、弾劾されました。中には、殺されてしまう者もいたと聞いています。学僧や高僧として皆の尊敬を受けて止まなかった師たちは、タムジンの中で創造を絶する侮辱を味わなければなりませんでした。虫を叩きつぶすことを強いられたのです。チベット人は殺生することを極端に嫌がります。なぜなら、例え小さな虫であろうとも、前世で限りない愛を受けた母の生まれ変わりかも知れないからです。全ての有情は、同じように生命の尊さを持つのです。特� ��、僧侶は戒律で殺生を禁じられています。中国人たちは、その戒を高僧に破らせたのです。それだけではありませんでした。思いつく限りのありとあらゆる屈辱を高僧たちは味わわねばなりませんでした。人々は、この恐ろしい風景を震えながら傍観するだけでは許されませんでした。中国人たちは銃口を村人に向け、彼らに石を投げつけるように、或いは殴るように強制したのです。弟子は尊敬する師を打擲するように命令され、子供は親を打擲せねばなりませんでした。
我慢は限界まで来ていました。彼らは武器を取り、中国兵たちに捨て身でぶつかっていきました。東チベットに住むカム族は、誇り高く勇敢なことで有名です。馬を自由自在に操り、中国軍のキャンプや部隊に奇襲を掛けては、さっと山に逃げ込むカム族たちは、最初中国兵たちに強い打撃を与えました。けれども、中国は大量の兵を更に東チベットに送り込むと、カム族を徹底的に弾圧し支配力をある程度取り戻すことに成功しました。カム族はさらに奥深い山中に逃げ込むとそこでゲリラ活動を開始したのです。ゲリラ活動に加わるものは、次第に数を増してきました。ゲリラ組織と関係を持った者、食料や武器を提供した者、そしてゲリラ組織へ参加した者の家族、妻や子供までにも容赦ない仕打ちが待ってい� ��した。殴り殺されるか、或いは銃殺されるか、そうでなければ、強制労働キャンプに送られて餓死するかのいずれかが、そうした者たちへの残された道でした。例え、女性や子供でも免れることは出来ませんでした。ゲリラ活動は広範囲に広がり、多数の死者、逮捕者がでました。ゲリラに協力したということで、寺院は破壊され、僧侶たちは強制労働キャンプに送られました。東チベットは完全な騒乱状態に入っていました。東チベットから逃げてきた人々がラサに集まるようになってきました。
ラサの人々は震撼しました。チベットは、どうなってしまうのだろう。このまま、深い暗黒の闇の中へと一気に吸い込まれてしまう気がしました。そうなったら、私たちはどうやって生きていけばよいのだろうか。ダライ・ラマ法王の御身の上はどうなってしまうのか。不安がさらなる不安を呼び、全てを飲み込んでしまうような底知れない恐怖に駆られるのでした。ラサに集まった東チベットからの難民たちは近郊の野原にテントを張り、テントの数は毎日のように増え続けました。男たちはいくつかの「護法義勇団」と呼ばれる反中国ゲリラを組織しました。その中で一番大きかった組織は、東チベット(カム)と北チベット(アムド)を意味する「四つの河六つの山脈」という名前で呼ばれていました。
ラサでも、人々に間にいくつかの反中国組織が出来ました。街の壁には、あからさまに中国のカムでの数々の蛮行の様を語った貼紙が現れ、壁の落書きには「中国人は中国にさっさと帰れ」と書かれていました。東チベットでの戦火は大きくなるばかりで、人々の緊張と不安も高まるばかりでした。1958年には「四つの河六つの山脈」は、ラサから百キロメートル程離れた中国軍の主要陣地を包囲するまでになっていました。
◆蜂起
そして、とうとうラサでも中国兵との衝突が勃発したのです。1959年、チベット歴の新年が明けて間も無くのことでした。新年の大祈祷法会が終わった頃、ダライ・ラマ法王が誘拐されようとしているという噂が流れました。中国軍司令部にて行われる舞踏の観劇に法王は招待されていました。けれども、中国側は護衛の兵士すら付くことを許さず、ごく少数で来ることを強制したのです。普通、法王がどこかにお出ましになるときには、官僚や高官、貴族たちが何十人もお供することが習わしになっていました。
「中国は何か良からぬことを計画している筈だ」
「法王はそのまま、中国軍に拉致されてしまうに違いない」
人々の疑いは、当日司令部への道路を交通規制することが決まると同時に一層高まりました。法王の観劇は3月10日の予定でした。
「法王を決して司令部へ行かせてはならない、我々の手で法王をお守りするのだ」
人々はそう言って、命を掛けても法王を中国人の手からお守りするつもりでした。誰も思いは同じでした。法王はその時、ポタラ宮ではなく、ノルブリンカ離宮に建てられた法王の新しい住居にいらっしゃいました。
10日の朝には、人々はノルブリンカ離宮の前に集まり出しました。法王の司令部への観劇を断固阻止するつもりだったのです。私がノルブリンカ離宮に到着したときには既に離宮前の広場には何万もの人々がひしめき合い、口々に中国への恨みと怒りを叫んでいました。中国人の今までの蕃行に対する憎悪は計り知れなく、何年にも渡る中国の支配に人々の我慢の糸は完全に切れてしまっていました。人々は集会を開くと中国と結んだ十七ヵ条協定の失効宣言をしました。
「中国人は速やかにチベットから出て行け。もう中国の指図は一切受けない。チベットは私たちチベット人のものなのだ」
民衆は拳を高く降り上げて歓声を上げました。そして、パレーという倉庫係りが立ち上がり、激しい口調で熱弁を奮い始めました。
「私たちは今まで我慢に我慢を重ねて来た。元来、チベット人は中国人を好ましく思っていない。そもそも言葉も違えば、風習や文化も全く違う民族をだいたい一つの国にしようという考え自体が間違っている。中国のせいでチベットは何もかも滅茶苦茶になってしまった。一刻も早く中国人たちを追い出さなければ、私たちは全てを失ってしまうだろう。そして法王もいなくなってしまうだろう」
パレーはそう言って全面闘争に突入するしかないと民衆に促しました。そして、ノルブリンカの周囲にピケを張り、人垣のバリケードを作って、法王を中国軍の手から守ることが決まったのです。
12日には、ポタラ宮の麓のショル村でも、女性たちによる大規模なデモが起きました。私はノルブリンカでのデモには加わらず、ポタラ宮に戻っていました。ナムギャル寺では午前中の4時間、危機を回避するための特別な法要が行われていました。私は不安ともどかしさで落ち着けず、法要の間中、まったく集中出来ないままでした。窓から覗くと、何千、何万もの女性たちがポタラ宮の麓にひしめきあっているのが見えました。夕刻には、中国兵を満載した60‾70台のトラックがラサの街へと走って行きました。
ラサの緊張は日増しに高まり、ノルブリンカに集まる人々の数は増え続け、中国に対する罵倒の声も大きくなっていきました。もう、市民の怒りを押さえる術は何もありませんでした。この十年間でたまりにたまった鬱憤が、一度に噴き出し、それは「中国人は中国に帰れ」と叫ぶ声に表われていました。中国軍の反応を伺いながら、緊迫した何日かが過ぎました。私たちの気掛かりは自分たちの命や生活などではなく、ダライ・ラマ法王のことだけでした。
◆法王の亡命
3月18日のことでした。普段はノルブリンカ離宮にある御堂に勤めているジャンペル・クンケンという僧侶が私の部屋を訪ねて来ました。ジャンペルはとても興奮していました。
「どうしたんだ」
私は彼の様子から何かただ事ではないことが起きたと直感しました。
「もう安心していいぞ。ダライ・ラマ法王は無事にラサを出てインドに向かわれた」
思いがけない彼の言葉に私は声を出して驚きました。
「本当だとも。昨夜、法王は密かにノルブリンカ離宮を脱出した。さあ、戦いが始まるぞ。祖国を守るために我々も立ち上がらなければ」
「その通りだ」
と大きくうなずくと、私たちは即座に友達の僧侶たちを自室に集めました。誰もがチベットとポタラ宮を守るために戦う覚悟をしていました。法王には護衛として『四つの河六つの山脈』の選り抜きの戦士たちが付き添い、インドまでの道程をお守りするということでした。中国の追手もさることながら、ヒマラヤ山脈の険しい峠を越えねばならない厳しい道程です。どうか中国人の手に落ちることなく、無事にインドに辿り着いて欲しい。法王に仏のご加護のあらんことを。私たちはお堂に集い、ダライ・ラマ法王の無事を祈らずにはいられませんでした。
次の日の早朝、皆で僧院長の部屋へ行くと中国軍と戦うことを決意したことを伝え、許しを請いました。
「戦闘が始まれば、中国軍はポタラ宮へも攻めてくるに違いありません。ポタラ宮が中国人に荒らされるのだけは何とかして避けたい。どうか、銃を持つことを許してください」
年老いた僧院長は静かに頷くと静かに言いました。
「戦闘の際には、殺生は免れないだろう。出家の身には、固く戒律で禁じられていることだ。しかし、僧衣を脱ぐのはあくまで本人の意志だ。お前たちの自由だ。私はもう戦うには年を取りすぎてしまっている」
僧院長の気持ちは、辛そうな表情から伝わってきました。殺生は決して許されないことです。けれども、私たちが戦わずして、どうしてポタラ宮を守ることができるでしょうか。
日が暮れてしまうと、地鳴りのような鈍い爆音が辺りに響き渡り始めました。とうとう中国軍の攻撃が始まったのです。まもなく、ノルブリンカ離宮にいたセラ寺の僧侶たちがポタラ宮を守るために来てくれました。ノルブリンカ離宮はすでに火の海になっていました。中国兵たちは逃げ惑う民衆に向かって、無差別に機関銃の一斉射撃をしたことがセラ寺の僧侶の口から聞かされました。沢山の人が銃火に倒れ、ラサの人々が日曜日にピクニックを楽しむノルブリンカ宮殿の庭園は、夥しい血でぬかるむほど赤くなってしまったというのです。一番恐れていたことが、現実のものとなってしまいました。私は震えが止まりませんでした。熱病に襲われたかのように、体の芯がガタガタと震え、絶え難い程の不安が胸� ��渦巻いていました。今こそ、立ち上がらなければならない。そう、私は何度も自分に言い聞かせました。銃を手にする時はすぐ目の前に迫っていました。
私は法要が行われるいつもの御堂へ行き、既にその主を失った法王の玉座に向かって三度五体投地をしました。僧衣を脱ぎ、還俗するつもり意思を固めていました。いつもは百人もの僧侶が集う広い部屋に、私一人で空っぽの台座とお釈迦さまの仏像に向き合っていました。バターランプの揺らぐ灯りのもとで私は、静かに僧衣を脱ぐと俗人の服に着替えました。僧は殺生することを固く禁じられています。けれども、私は戦いに行かねばならないのです。殺生は避けられないでしょう。たとえ、殺生の果として地獄に落ちようとも構わない。チベットのために戦うことに何の後悔もありませんでした。私は僧衣とともに戒律も返上し、出家の身であることを止め、還俗しました。法燈の炎が静かに揺らぎ、お釈迦さ� ��のその柔和なお顔を照らしていました。御堂を出て、ポタラ宮殿の屋上に上がると、ラサの街のあちらこちらから、大きな火の手が上がっているのが見えました。夜のラサに大砲の音が鳴り響いていました。
◆闘い
私たちは、銃や弾丸がポタラ宮殿のどこにあるのかを知りませんでした。ポタラ宮殿を守りに来たセラ寺の僧侶たちも棒やナイフなどを手にしているだけで、誰一人として銃を持っているものはいませんでした。
「どうして、あらかじめ銃を準備して置かないんだ」
セラ寺の僧侶たちは、何も準備をしていなかった私たちに呆れたようでした。ポタラ宮殿には武器倉庫があったけれども、私たちはその場所を知らされていなかったのです。どうにかして、地下倉庫にある銃を探し出すことが出来ましたが、肝心の弾丸の場所が今度はわかりません。銃は何十年も使われたことが無いのではと思えるほど、埃をかぶっていました。銃の使い方を知っている僧侶は誰もいませんでしたが、ポタラ宮殿を守備するために来てくれたチベット兵士たちが手ほどきをしてくれました。けれども弾丸がなければ、ただの棒切れと同じです。弾丸をどうしても手に入れなければなりませんでした。
倉庫の管理人に連絡を取り、ポタラ宮殿の東側にある別楝に弾丸があることが分かりました。今、別楝まで行くのは大変危険なことでした。ポタラ宮殿自体はまだ砲撃されていませんでしたが、東側の別楝や民家には絶え間無く砲弾が打ち込まれ、半壊状態だったのです。砲弾の雨の中を別楝まで行くのを多くの者は危ぶみました。命を危険に晒すのを躊躇するのはあたりまえのことでした。
「私が行こう。殺されても構わない。覚悟は決めてある」
私は自ら率先して、弾丸を取りに行く役を買って出ました。他に十人程の僧侶が名乗り出ました。
私たちはポタラ宮殿を出ると一目散に別楝の方へ走りました。砲弾が耳をつんざくような音を立てて、すぐ後ろで、或いは行く手を阻むかのように、目前で炸裂しました。私は無我夢中でした。ひたすら経文を大声で唱えながら、弾丸の置いてある倉庫の中へと駆けこみました。暗闇の中で鍵をこじ開け、弾丸を二箱抱え上げると、再びポタラ宮殿へと大急ぎで戻りました。息が切れ、箱の重みによろめきながらも、必死に走り続けました。その時、後ろの方で砲弾が炸裂し、一人の僧侶が横腹を押さえて倒れ込みました。あっと思った瞬間、数メートル先の地面で再び砲弾が破裂し、強い爆風を肌に感じました。どれくらいの時間がたったでしょうか。わずか数秒程のことだったであろうに、随分長い時間だったよ� ��に感じました。我に返った時には、二人の僧侶の無残な死体が目の前に転がっていました。彼らをどうすることも出来ないまま、弾丸の箱を抱えて、再びポタラ宮殿へと走り出しました。悔し涙が後から後からこぼれて頬を濡らすのを拭うことも出来ず、砲弾が降り注ぐ中をひたすらポタラ宮殿へと急ぐしかありませんでした。
合わせて三人の僧侶が亡くなりました。私が助かったのは奇跡ともいえました。彼らが私の身代わりに亡くなった気がして、胸が強く痛みました。運び込んだ弾丸を皆に分け与えると、ポタラ宮殿を護衛に来たチベット兵士たちから手ほどきを受けました。おぼつかない手で銃に弾丸を詰め、射撃の仕方を習うと、それぞれの配置を決めました。盛んに大砲を発射する音が聞こえるというのに、中国兵の姿は全く見えませんでした。どこから発射しているのかも皆目わからない状態だったのです。砲車は50台もあったでしょうか。中国の攻撃に対して私たちは何も為す術がありませんでした。
中国共産党軍がポタラ宮殿を攻撃するのは時間の問題でした。中国軍の攻撃は日を経つにつれ、激しさを増してきました。ラサの街は戦火に包まれ、煙が空を厚く覆っていました。セラ寺、デプン寺が大砲の攻撃を受け、多く僧坊やお堂が破壊されたという知らせが入って来ました。二大僧院が破壊されたということを聞くと皆打ちひしがれました。デプン寺にて出家生活をしていた弟たちの安否も心配でした。このままでは聖なるラサの街、全てが無くなってしまうだろう。私たちは、武器、兵士ともに数において中国軍に圧倒的に負けていました。中国軍には戦車まであったのです。チベット軍は中国軍の前ではあまりにも無力でした。そして、ついにポタラ宮殿の向かいのチャクポリ丘にあるチベット医学院が� ��落したという知らせが入ってきました。大砲を雨のように浴びた医学院は、その跡形すら残らないほど、吹き飛ばされてしまったと聞きました。私たちもこのままポタラ宮殿に籠城し、戦闘を続けていると、中国軍はポタラ宮殿にも大砲を向けるでしょう。ポタラ宮殿には代々のダライ・ラマ法王の遺体が安置されている霊塔があるのです。それらが壊されてしまうということは想像することすら耐えられませんでした。
22日の夜、私たちは今後の行動についての集会を開きました。このままポタラ宮殿に残り、戦闘を続けようという派、ポタラ宮殿を守るためにもここから出ようという派の二つに意見は分かれました。
「宮殿には、一年間篭城しても大丈夫なだけの食料もあれば、水もある。ダライ・ラマ法王が無事にインドに辿り着けば必ず外国からの援軍と共に戻ってこられるだろう。それまで、戦い抜くのが我々の義務ではないか」
一部の者は最後まで戦い続けようと強く主張しました。けれども、ポタラ宮殿を去る意見の方が強かったのです。
「ここにこのままいても状況は好転しないだろう。籠城し、戦闘が激しくなれば、ポタラ宮殿は破壊され、焼き尽くされてしまうだろう。けれども、我々が去れば、これ以上の大砲での攻撃はなくなるに違いない。歴代ダライ・ラマ法王の遺骨を守るためにも、今はそれしか方法はない」
私もそう思っていました。最後には、ポタラ宮殿を出ることで意見が一致し、長い間修行を積み、住み慣れた宮殿を後にすることになりました。
◆ポタラ宮を後に
その夜、私たちは抱えられだけの銃と弾薬を持つと、密かにポタラ宮殿を抜け出し、馬に乗ってサムツァムゾンへと向かいました。私はトプテン・テンダル師を気づかいながら馬を走らせました。師はすでに60才を越えており、他に身よりの無い師を最後までお世話しなければと思っていました。丸一日掛けてサムツァムゾンに辿り着くと、そこには他の僧院からも沢山の僧侶たちが到着していました。デプン寺にて修行していた二人の弟、ニマ・ダクパとツォニたちも来ており、互いの無事を確認しては喜びました。五人兄弟の真ん中の弟、ソナム・ペンパは『四つの河六つの山脈』に入ったと聞きました。そこに集まった僧侶たちは皆ダライ・ラマ法王の後を追ってインドに行こうと考えていました。インドで武器を補充し、再びチベットに戻り、戦うつもりでした。何人かの僧侶は既にインドに向けて出発していました。ヒマラヤを越えることは、大変なことでしたが、法王と行動を共に出来ると思うと力が湧いて来るのを感じま� ��た。私も弟たちや師と一緒に次の日には、インドへ向かうつもりでいましたが、同じ村の知り合いから母がとても逢いたがっているという事を聞きました。母が私たちの安否を心配していることは痛いほどよく分かりました。弟たちも思いは一緒でした。次の日、私はインドに行くのを止め、母に逢うためにルンドゥップの実家へと馬を走らせました。二人の弟、トプテン・テンダル師、それと14人のナムギャル寺の僧侶も一緒でした。
丸一日馬を走らせ、家へ辿り着くと、母は私たちの無事を知って涙を流して喜んでくれました。ラサでの戦闘のことを村人より聞き、もう生きてはいないと覚悟さえしたと話してくれました。
「ラサは死体で溢れて、街は瓦礫の山だらけだと聞いたから、本当に生きた心地がしなかったよ。ダライ・ラマ法王が中国人の手に落ちる前にインドへ向かったということだけが、唯一の救いだったが。どうか無事にインドに辿り着いてくださればよいのだけれども」
母は泣きながら何度も繰り返しました。
母は私たち息子がインドに行くつもりであることを知ると強く反対し始めました。再びチベットに戻って来て戦えるかどうかも定かではなく、もう、二度と逢えなくなってしまうと思ったのでしょう。私も母と今生の別れになるかも知れないと思うとさすがに、母を残してインドに行くのが渋られるのでした。
次の日、中国共産党の使いが家にやって来ました。ラサでの戦闘が終わったこと、兵士や僧侶たちは全員降伏したこと等を伝えると、私たちもナムギャル寺に戻るようにと言われました。
「何も心配しなくてもいい。銃を取って戦闘したことについては、何の咎めもない。中国共産党は心が広いのだ。僧侶は再び元のように僧院生活に戻れるから」
彼は甘い言葉で巧みに誘いました。私はどうしてもその言葉への猜疑心を拭さることが出来ずにいましたが、他の僧侶たちは戻ることに決めたようでした。翌日、12人の僧侶がラサへと戻りました。トプテン・テンダル師も他の僧侶と一緒にラサに戻りました。私は不安な気持ちで彼らを見送りました。まもなく、彼らが逮捕されたことを知りました。中国共産党は、ラサに残った僧侶のほとんどを労働キャンプに送り、空になったデプン寺やセラ寺を兵士の宿舎に使ったのでした。ポタラ宮殿の全ての財宝、仏画、仏像の類は略奪され、後は鍵を閉められ、廃虚同然に打ち捨てられて置かれました。長い階段を上がらねばならないポタラ宮殿は倉庫代わりにも使えないと中国人たちは思ったのです。
◆再び、闘いへ
私は、最後まで中国人と戦い、彼らの北上を少しでも食い止めるつもりでした。手元には、ポタラ宮殿から持ち出したライフル17挺、それと家にあった日本製のライフル2挺と短銃2挺がありました。遊牧民はジャッカルや泥棒から家畜を守るために銃を保持しているのが常でした。けれども、私の他に弟2人とアヌーとダムチュというナムギャル寺の2人の僧侶しか家に残った者はなく、5人だけでどうしたものかと思案に暮れていました。
ある日、40才くらいの大柄ながっしりとした体躯の男が家にやってきました。髪は腰まで届くほど長く、三つ編みをして頭に巻つけてありました。彼はペンポ地方を散々荒し捲った盗賊の首領である身の上を明かすと、祖国のために協力したいと言ってきたのです。
「私はもともとはセラ寺の僧侶であったのだが、いつしか20人を率いる盗賊の身に落ちぶれてしまった。私の為した悪業は計り知れない。今まで、旅人を襲っては身衣も剥ぎ、村を襲っては農作物をごっそり頂戴してきた。その罪の業果を思うと恐ろしくて仕方が無いのだ。来世で地獄に落ちるのは必定に違いない。せめてもの罪ほろぼしに祖国チベットのために戦いたいのだ。協力してはくれないか。聞けば、銃や弾薬等の武器があるらしいではないか。我々のために分けてくれないか」
サンペルというその男が祖国のために何かをしたいという切羽詰まった強い思いが嘘ではないと知ると、私は彼に協力することに応じ、武器を分けることを約束しました。そして、私も一緒に戦いたいと申し出ました。弟たちやナムギャル寺の僧侶たちも同じ気持ちでした。サンペルは喜んで受け入れてくれ、私たちは共に戦うことになったのです。
サンペルは既にいろんな所に声を掛けて300人程の兵士を集めていました。チベット政府の兵士たち、東チベットから流れて来た者たち、僧侶もいました。渡したライフルは、受け取った者の名前を全部控えました。ライフルはポタラ宮殿から持ち出したものです。戦争が終わった時には、チベット政府に返すつもりでした。私たちはチベットが勝利を収めて、ライフルをポタラ宮殿に返す日が必ずやって来ると信じていました。
「ダライ・ラマ法王がすぐに外国の軍隊と一緒に帰ってくるだろう。ラサの南には『四つの河六つの山脈』がいる。我々は北から中国を打ち破って『四つの河六つの山脈』に合流しよう。中国軍を挟み打ちにするのだ」
サンペルと私たちは作戦を練り、夜遅くなるまで話し合いました。
サンペルは私の家に住み、他の者たちは家から15分ほど離れたレティンにテントを張って野営していました。レティンは周りを険しい山に囲まれた谷間にあるわずかな平地で、村から道が一本通じているだけでした。入ってしまえば、ちょうど行き止まりになっており、野営するには持ってこいの場所でした。道を塞いでさえいれば、どこからも攻められる心配はなかったからです。食料はすぐ下の弟、イシェ・サムテンが調達してくれることになっていました。
チベット歴4月10日のことでした。牛追いの子供が必死で山道を駆け抜け、私の家に走り込んでくると息を切らして叫びました。
「中国人がペンカ峠にやって来た!」
それを聞くと私たちはすばやく武器を取ると急いでペンカ峠に向かいました。峠までは馬で20分ほどのところでした。サンペルとセラ寺の僧侶5人、サンペルの二人の息子、私を合わせて九人で、馬を走らせました。サンペルの息子はわずか14歳と11歳でした。
ペンカ峠に差し掛かり、20人ほどの中国人の姿が目に入るや否や、ライフルを立て続けに発射しました。向こうも慌てて銃を手にし、応戦して来ましたが、奇襲が効いたのか、私たちはすぐに優勢に出ました。中国人たちは徐々に押されて、ゲトゥ・カワまで後退し、やがて一軒の民家に立て篭りました。私たちは4人づつ二手に分かれて家の両側から周り込み、一人は家の背後にある裏山から狙うことにしました。裏山から狙う役目は私がすることになりました。サンペルは大きな声で中国人たちに呼びかけました。
「武器を捨てて降参するなら、ダライ・ラマ法王の御慈悲により命は助けよう」
中国人たちはすぐに機関銃を乱射してきました。私たちもすぐにライフルを構えて撃ち始めました。銃弾が飛び交い、激しい銃撃戦がしばらく続きました。無我夢中で引き金を引き続け、休む間もなく弾丸を詰め替えました。銃声が鳴り止み、気がつくと7人の中国兵が死んでいましたが、私たちは全員無事で無傷でした。残った中国兵たちはなお篭城を続けました。私たちは村人からスコップを借りると屋根の上に登り、家の持ち主の了解を得ると屋根に大きな穴を掘りました。チベットでは壁はもちろんのこと屋根も泥で作るのです。穴を掘り終わると、火を付けた枯れ草を投げ込みました。一人の中国兵が逃げ出した他は皆焼け死んでしまいました。
焼けてしまった家の家主には、代償としてヤクが与えられることになりました。サンペルは、村人たちに家主を助けてくれるようにと頼みました。やがて、村人たちの話しから、村から馬で3時間ほど離れたペティンには300人程の中国兵が駐屯しているということが分かりました。ルンドゥップの家に戻って仲間たちと合流し、すぐに攻撃をしかけようと思っていましたが、村に戻ると香が焚かれており、村人たちは私たち9人を英雄であるかのように扱ってくれ、腹一杯になるまで食事を勧めるのでした。
「こんなに嬉しいことは久しぶりだ。いくらでも応援するから、ぜひとも中国を倒してくれ」
食料もたくさん調達してくれており、私たちは村人の協力を大変心強く感じました。300人の義勇団の食料をどうするかが、一番の悩みだったからです。
次の日の早朝、私たちは300人の仲間と共に、奇襲を掛けるためにペティンへ馬を走らせました。ところが、中国兵は既に移動した後で喪抜けの空でした。地元のチベット人の話しによると、ペティンよりさらに2時間ほどのカツェに夜のうちに移動したということでした。私たちの攻撃を察知して200人程の中国軍が駐屯しているカツェへ援軍を求めに行ったのは間違いないようでした。そこで、戦闘に有利な場所に先回りして移動し、迎え撃つことになりました。私たちは兵士の数や武器の質や量では遥かに中国共産党軍に劣っていましたが、土地に詳しかったため、中国に大きな打撃を与えることができたのです。山が両側から押し迫った渓谷に義勇団全員で移ると、山の両斜面に仲間を配置して、迎え撃つことにしました。谷は少し手前で大きくカー� �しているため、中国兵たちから私たちの姿は見えず、さらに谷間には渓流があり、中国兵にとっては足場が悪い上、私たちは楽に標的を狙えるという絶好の場所でした。
3時間ほどが過ぎると、見張りが戻ってきて、200人程の中国兵がこちらへ向かってくると伝えました。緊張した小時間が過ぎると、やがて眼下に中国兵が現れました。サンペルのライフルが最初に火を吹いて、一人の中国兵が河に倒れ込み、飛沫が上がるのを見ると、私も夢中でライフルを撃ちました。中国兵も盛んに撃ち返し激しい銃撃戦が開始されました。何時間続いたのでしょうか。短かったような気もするし、とても長かったような気もします。初めての大きな戦闘で、私はとても緊張していました。銃声が鳴り止み、再び静かな谷に戻った辺りの様子に気が付くと、中国兵のほとんどは河に倒れ込んで、息絶えていました。他の者たちは皆逃げ去っていました。私たちの方は、4人が肩などを撃たれただけでした。河を下� ��と死んだ兵から銃と弾薬を取りました。
ルンドゥップの村へ戻る途中、先のゲトゥ・カワの戦闘で全滅した中国兵たちが駐屯していた宿舎に立ち寄りました。中国兵はツォモリン寺から土地を奪って宿舎を建てていたのです。宿舎の中にはチベット人たちから没収した日縄銃が50挺ありました。私たちはその火縄銃も手に入れると村へと戻りました。戦闘にも勝利を収め、大量の武器も手に入った私たちは、喜びに溢れて村へと凱旋しました。チベットを我々の手に取り戻す日も遠くはない。再び、自由でのどかな生活が戻ってくるだろう。私は疲れも感じないほど高揚していました。家に帰ると勝利の報告に村人が喜んでくれました。母も顔を上気させて喜び、
「私は今日ほど息子を産んだことを嬉しく思ったことはないよ。お前たちは私の誇りだよ」と言ってくれました。やはり盛大な宴が設けられ、兵士たちも皆勝利に酔いしれて、中には歌い出す者もいました。馬も草原に放して、たっぷり休ませました。私の馬は、ダークブルーの雄馬でした。とても良い駿馬で、ユドップという名前でした。ポニーも1頭いました。焦茶色の雌で目と口の周りが白くギャモという名前で呼んでいました。ポニーといっても馬の大きさほどあり、この後、北のナム湖に行くときに乗っていました。
数日が、嵐が過ぎ去った後のように平穏の内に過ぎました。私たちは見晴らしの良い丘に何人かの見張りをいつも立てていましたが、ある日、こちらへ中国人が向かっているという情報が入りました。
「たくさんの中国兵だ。少なくとも2万はいる」
皆それを聞くと青ざめ、どうしたものかとざわめきました。サンペルだけは冷静さを保ったまま、私たちを諭しました。
「まあ、あわてるな。奴らは歩いて来ているのだから、到着まで優に半日はある」
ペンポには当時車が通れるような道はなかったのです。
「二万もの兵に対抗出来るような人数もなければ、武器も弾薬もないじゃないか」
誰かがこう言うと、サンペルは笑いながら
「なに、石を使えばいい」
と言いました。サンペルの考えはこうでした。前と同じように両側が狭まった渓谷の上に大きな石を準備して待ち伏せして、ちょうど中国兵が下にやってきた時に、石を落とすのです。原始的な方法ではあったけれども、馬で谷へと向かい、大急ぎで渓谷から大きな石をいくつも山の斜面へと運び上げました。
中国兵は日が暮れてしまってから、渓谷へと足を踏み入れました。私たちはタイミングを見計らうと、一斉に石を転がしました。何百もの石は大きな音を立てて、ものすごいスピードで下の渓谷を歩く中国兵目がけて転がり落ちました。一瞬にして彼らはパニックに陥り、方角も分からず乱射する機関銃の音や悲鳴が谷中に響き渡りました。サンペルの作戦は大成功で、私たちは少しの被害も被らず、中国兵を退散させることが出来たのでした。
しかし、またもや次の日の早朝には、3万人もの大軍がやってくると見張りに立った者が慌てふためいて村に戻ってきました。今度のサンペルの考えはこうでした。
「まず、我々の全部の馬を山に上げよう。それを見た敵は我々が逃げたと油断するだろう。そのまま奴らを野営地のレティンまで追い詰めるのだ。レティンに入ってしまえば、行き詰まりで、どこにも行くところがない。そして背後から奇襲を掛けるのだ」
サンペルは盗賊の頭だけあって、危機の時には色々と機転が効くのでした。誰もがサンペルのアイディアに感心し、準備を始めました。次の日の早朝、400匹の馬を一頭ずつ縄で繋ぐと三人の村人に引かせて山の放牧地へと登らせました。その様は遠くから見れば、まるで私たちが移動しているようでした。
果たして、中国兵たちは義勇団が野営していたレティンまでやって来ました。私たちは民家や岩陰に息をひそめて彼らが全て入ってしまうのを待ちました。そして、後ろから一気に攻め入ったのです。油断していた中国兵は戸惑って狭い土地で右往左往しました。漸く体制を立て直した時には既に遅く、私たちは回りをすでに包囲していました。戦闘は朝11時から夜中まで続きました。私たちは勇敢に戦い、中国共産党軍に大きな被害を与え、残った者は皆逃げていきました。ですが、この戦闘で、サンペルが負傷してしまいました。大砲の弾薬で砕けた石が左肩を直撃したのです。傷は思ったより深く、サンペルはそれから二度と銃を握れませんでした。サンペルは普段から恐れるということを知りませんでした。岩陰に隠れて身を守るということをせずに、勇敢に敵に向かって行きました。首に掛けた仏様の入った銀の箱(カウ)が守ってくれると強く信じていたからです。私たちは戦闘が終わると馬を上げていた山に登り、そこで食事を取りました。疲れ果てていた私は、横になるとそのまま眠りについてしまいました。
次の日の朝、また中国兵がやって来たという見張りの叫びに目を覚まし、ライフルを抱えて馬に飛び乗りました。情勢は悪く、今度は私たちが押されて、退散しなければなりませんでした。私たちは4時間ほど離れた北のパクサに移ることを決めると、馬にテントを積み、大急ぎで移動しました。
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